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成人年齢の引下げ論議を歓迎する…

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○ 私は、先月の「喫煙者率」等に関して、「選挙権を含め、日本の成人年齢を世界各国並みに引き下げるべきである」と書き込んだが、昨日の朝日新聞トップ記事に次のような内容が掲載され、「いい傾向だね!」と嬉しくなったのである。

「成人」の年齢を20歳から18歳に引き下げる民法改正案が年明けから検討されることになった。来年の通常国会で国民投票法案が成立した場合、そこから3年以内をめどに改正をめざすという。改正されれば、18歳が法律上の大人となり、結婚や財産権、飲酒・喫煙など幅広い分野で社会を変えることになる。

○ 高3のわが子の言動に付き合っていると、大人と子どもの権利や義務、親と子の依存と協力といった「境界線」への意識に欠けていることを痛感させられる。権利だけの主張、協力なき依存を平然として、日々、実行している姿に閉口させられるのだ。酒とたばこはまったくやらないが、そのことさえ自分の判断で選択しているというよりも、禁煙教育に忠実に従っているかのように思われる。江戸時代の元服ではないけれど、もっと若い段階から「大人」としての義務や責任について、強制的に自覚させるシステム、それが今の日本には必須のことだと思う。
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ニヒリズムと小さな幸せなどについて(下)-('99/9/16)

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▼ 1993(平成5)年7月12日(午後10時17分)から3年後、越森幸夫奥尻町長は…

「マグニチュード7.8という、この震災における被害の状況は人的被害、死者172名、行方不明26名、重軽傷者143名におよび、被害総額は約664億 円にも達しました。人口わずか4,000人半ばの島にあり、町の年間予算規模約50億円のひ弱な財政基盤からして、自然がもたらしたこの震災に対しての復 旧・復興対策は余りにも大きいものであります。
 いったんは完膚無きまでにたたきのめされた奥尻が、災害に強い豊かさを実感できる新しい町づくりのための工事を展開中であり、被災時からすると街の様相 も大きく変わって参りました。これも国、道などのご理解と全国津々浦々からの物心両面のご厚情の賜物と思っております。」


と町の復興に向けた心境を語り、これまでの各種支援に感謝を述べるとともに、足並み揃えての新生活をスタートする目算が立ったと報告している。

▼ 私に前向きな人生観と、「小さな幸せ」を求める勇気を与えてくれた友人の娘さんたちも、すでに高校生と中学生であり、母の死から約10年が過ぎようとしている。若い時分の私が抱えていたニヒリズムは、「幼子の手の温もりに、あっさりと降参するほどのもの」であり、「親兄弟や夫、嫁いだ家、わが子たちのためにだけ生きたような母との対比で考えれば、あまりにも軽い現実からの逃避的な感情」に過ぎなかったのだろう。

▼ そして、友人の経験した恐怖の一瞬や喪失感でさえも、再び青苗地区の高台に旅館を建て、家族一同が協力し合って生活を営むというたくましさに結実していることを思えば、気分も晴れるのである。

▼ このようにニヒリズムは、多分、中途半端が一番良くないのであり、自分の逃げ道として後ろ向きに作用しやすく、その罠は至る所にしかけられているものなの だろう。だからこそ、私は甘いニヒリズムへの誘惑を感じつつも、「小さな幸せ」や「今はなき近しい人たちの面影」を大切に、これからも自らの中に生み出されるニヒリズムに対抗していきたいと考えている。

※ 7年も前に書いたことを再掲しながら、当時のことを思い出している。時の流れというものは、想像を超えたスピードで、立ち止まることを許さない。機会を見つけ、「振り返り」という作業をしておくのも大切なことだと再認識しえいる。というわけで、皆さん、よいお年をお迎え下さい。

ニヒリズムと小さな幸せなどについて(中)-('99/9/16)

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▼ 私の友人は奥尻島の旅館の長女と結婚し、自分が修行し身につけた料理人として、道路をはさんだ母屋を兼ねる旅館の真向かいの海岸寄りに、日本そば屋を開業していた。その当時の私は、30歳を間近にしていたにもかかわらず、ハッポースチロール的な考え方にもとづき、投げやりで現実逃避的な生活を過ごしていた。

▼「そば屋もやっと軌道に乗ってきたから、遊びに来いよ」と友人からの誘いがあり、「それじゃー」ということで札幌からプロペラ機(その後、ジェット機も就航するようになった)で当地へ向かったのである。

▼ 大学時代の友人が「商品」としてお客様に提供する「そば」を食べながら、「自分は何と情けない人間なのだろう。いまだに仕事にも身が入らず、所帯も持てず、友人のように土着もできないでいる。真剣に行く末を考えないと、本当に自分の性根が駄目になってしまうなあ」と痛感したのである。

▼ 翌朝、「ごはんの用意ができるまで、良かったら、娘たちと散歩でもして来てよ」と言われ、3人で外へ出たのであった。青苗の神社に寄ってからメイン通りを歩き、漁協などのある海岸を散歩したが、私の両手につながった幼子の手は、か弱く、柔らかく、そして温かかった。

▼ その温もりに、私は目の前の「小さな幸 せ」といった本能的な感情を強く刺激されたように思われるし、自分の中のニヒリズムとたたかっていく勇気を与えられたような気がしたのである。

▼ それから数年後、私は所帯を持ち、遅ればせながら親にもなっていた時に、あの7月21日を迎えたのであった。燃えさかる青苗地区のテレビ画像に見入り、 海面に突き出ていた神社の屋根、漁協の無惨な姿などを認識した時、友人および5人の家族の生死について、私は「うーん、駄目か!」と実感させられたし、 「現地が落ち着いたら、俺、行かなくちゃいけないので、お金と出かける準備をしてくれ」と妻に言ったのである。

▼ 私は、1991(平成3)年6月に母を亡くしたが、2か月前に「末期ガン」と知らされ夜、「自分の親が確実に死んでしまう」ということなど、それまでには考えたこともなかっただけに、あれほどつらい悲しみを味わったことはない。その時のことを思い浮かべながら、「あいつは、おそらく死んでしまったに違いない」という目の前の情報は、私にとって深刻な意味をもっていた。
 
▼ 友人の安否を確認するため、北海道でジャーナリストをしている後輩などにも連絡をとったが、現地は混乱状態の中にあり、私は気が気でならなかった。ちょ うど3日後、自宅へ友人から電話が入り、「一度、津波を経験している義父が、いち早く家族全員を高台に誘導したので、心配かけたけども、うちは皆んな助かった。

▼ これから、夏の観光シーズンを迎えようとしていた矢先で、せっかく新築した旅館が燃えているのを見ていたのは忍びなかったし、残念だけど、またや り直すことにするよ」という声の響きに、心打たれたことが今でも強く印象に残っている。

ニヒリズムと小さな幸せなどについて(上)-('99/9/16)

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▼ 誰しも心の中に、大小の差はあれ「ニヒリズム」と呼ばれる虚無的な感情を抱え、あるいは日々育てている。あくまでも自分の事例であるが、それは…

(1) 自分の欲しい物が手に入らないことからくる「あきらめ」や「羨望」
(2) 理想と現実の「ギャップ」や「挫折感」
(3) 世の中はそんなものだよ、と先を見てしまった場合の「閉塞感」
(4) 運が悪かったときに呟く〝どうせ自分なんて〟という「自己卑下」
(5) 自分の存在がとても軽く感じられる時の「自暴自棄」
(6) 様々な意思決定のプロセスから排除されることに伴う「疎外感」
(7) 大切にしていた物や人を突然失った時におそってくる「喪失感」

など、書き出していくと、日常的な「愚痴」「恨み言」などを含めれば、人を虚無的にさせる心理装置から派生する感情は、まさに切りがないほどであるが、その一つひとつに対処した時の気持ちの整理や自分としての納得の仕方によって、その後の人格に微妙な影響を与えているように思う。
 最もつらく、自分にとってこたえるのは、身近な人の「死」であったような気がする。
今年の夏もまた、8月14日に神奈川県の玄倉川で水害が起きた。犠牲になった鉄スクラップ会社の社員および家族の冥福を祈りたいが、「天災ではなく明らか な人災であり、行政側の責任はない」という世論であった。8月30日、なお捜索が続けられていた最後の1人(1歳の子ども)の遺体も発見されて、一つの事 故としては幕を閉じることになった。

▼ 手軽、近場、低コストでのキャンプという「小さな幸せ」を求めた社員旅行が、一転して大きな悲劇になったわけだが、これをニヒリズムの観点から分析すると…

(1) 集団心理としての的確な判断力不在と自暴自棄(流される時は一緒)
(2) 喧嘩をしてまでも危機を回避する関係性の欠如(仲間内、他のグループおよび行政)
(3) 言葉への信頼性の希薄化(禁止表示や警告への不信感)

などの心理的な背景をあげることができるだろう。(それに、前述した人災的な側面と予想を超える雨量およびダムの放水が重なったわけである。)
 さて、私にとっての災害といえば、1993年7月12日の北海道南西沖地震が印象深く、その時も今夏の水害と同じようにTV中継を見ていたが、自分の想いは全く違っていたのである。

私たちのカレー論(エピローグ)-('99/9/16)

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○ 最後に、「私たちのカレー論」のまとめおよび今後の展望を述べれば…

(1) 日本人におけるカレーの歴史は浅く、その具についても当初から多種多様であり、いわば、様々な食材を「自らの内部へと糾合していく実力と媒介機能」そのものが、カレーの大きな特徴であること。

(2) その中で、僕たちの少年・少女時代にあっては、カレーの具をはじめとして、「魚肉ソーセージ」という食材が好んで食べられ、食卓での重要な位置を占めていたことがわかったこと。

(3) 日本に伝来してからのカレーは、うどんやパンとの相性の良さを見せつけ、それぞれの業界の定番メニューとして棲み分けてきたし、スナック菓子やカップ麺の「カレー味」の存在なども見逃してはならないこと。
 それは、カレーが持つ強烈な風味が、食材本来の風味をなぎ倒してしまう「支配力」を発揮することであり、この囲い込み機能についても、カレーファンにとってたまらない魅力の一つになっていること。

(4) 「即席」「インスタント」という面では、お湯で暖めるだけの「レトルトカレー」が登場して以降、より手軽なカレーも進化を続け、大塚食品の「その場で3分、ごはんも一緒」に至り、その極限まで達してきている状況にあること。一方、固形カレールーの分野では、徹底した市場調査に基づく、毎年の新製品開発などによって熱い商戦が展開され、品質、味覚ともに向上してきていること。

(5) 私たちにとってのカレーと同様の位置づけにあると思われるのが、多分マクドナルドが日本に導入したハンバーガーであるといえること。ちょうど僕が上京した1971年7月に、日本マクドナルドは銀座に第1号店をオープンし、1985年500号店、1993年1,000号店、そして1998年にはついに2,500号店をオープンさせるなど、日本全国の隅々まで店舗を拡大し続けている。売上高は1997年で3,337億円であり、その経済効果はもちろん、地域雇用(パートを含む)への貢献も大きいのである。
 また、マクドナルドでのカレーバーガーは、季節限定メニューに登場するだけであり、定番メニューには入れてもらえないことから、日本の国民食になりつつあるハンバーガーとカレーとの相性は、必ずしも良好とないえないこと。

○ 今回、僕が述べたかったことは以上であるが、カレーは今でも約10億人といわれるインドの国民食であり、日本のカレーだって、様々な意匠をまといながら、しっかりと将来ともに、定番メニューの一つであり続けてくれることだろう。

私たちのカレー論(その8)-('99/9/16)

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* リンゴとはちみつ!

○ 今でこそ僕も、当時の相互扶助的な村落共同体の生活や、自然と共存したリサイクル的な農業というものに強い共感を覚え、これからの日本の行く末に見習うべきことが多いと確信しているが、実際に暮らしていた頃のことを思い起こせば、必ずしも良いことばかりではなく、家父長的な家族制度や、外部との交流が少 なく閉鎖された農村社会に息苦しさを覚え、それが自己嫌悪の要因になったのも事実であり、中・高校時代は田舎からの脱出が、自分としての至上命題であると さえ思ったことがある。

○ そんな僕は、1971年に18歳で単身上京し、歌舞伎町の立ち食いそばとカレーライスのスタンドでアルバイトなどをしつつ、カウンター越しに土曜日の夜 から日曜日の夜明けまで、引くことを知らぬお客さんたちの列に、食欲という名の〝貪欲なトンネル状の大きな管〟の幻覚を見たり、田舎とは決定的に次元の異 なった大都会の雰囲気に接しながら、貧乏な学生生活を送ったのである。そのあと、22歳で就職してからも、自炊する時の定番メニューはカレーライスであったし、46歳になった今、昼食と自宅での夕食がカレー続きになること があっても、歓迎こそすれ、落胆しないだけのカレー好きであり、今回の「カレー論」は自分の歴史的な位置を再認識できたことや、カレーというメニューをめぐる奥深い背景など、大変勉強になったのである。

○ そして、「カレーの現在」は私たちの頃以上に、多様化と専門化の度合いを深め、その特徴としては「カレー」と「ライス」の分離が進んでおり、例えば僕の従姉妹の子どもたちの世代になると、次のような「カレー論」になってくるのである。

 私は、今でもカレーは余り好きではありません。幼稚園から小学校・中学校にかけて、母が夜勤の時はいつもカレーでし た。おばあちゃんに余計な手間をかけさせたくないという配慮からでしょうが、週1回から2回の割合で夕食がカレーだったのです。
 その上、学校給食にカレーが出ようものなら、悲劇としか言いようがありませんでした。だから、学校で翌日の献立を覚えておいて、「明日は給食がカレーだから、違うメニューにして」と、すかさず頼んだものです。
 おかげで、一人暮しをしてから、カレーを作ったのは2~3回ほどのような気がします。外でカレーを食べることもあまりしませんでしたが、一時期、「毎週 月曜のお昼はカレー」を食べていた時がありました。インド人の経営しているお店が、学校の近くにあって、ナンがおいしくて、それを楽しみに通っていたよう な気がします。それが2年前の話ですから、それ以来カレーを口にはしていません。

私たちのカレー論(その7)-('99/9/16)

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* 栃木県の新しい名産になり得るか!

▼ 1970年代からの一世帯当たりカレー消費量をみると…
1970年  1,610g
1975年  1,940g
1980年  1,992g
と増加傾向で推移し、1982(昭和58)年の即席カレーの生産高は90,000トンに達し、これを国民1人あたりで換算すれば、1か月約3皿分になるそうである。このような背景をふまえ、私たちのカレーの思い出に話をもどしてみたいが、東京育ちの友人によれば…

 我が家では、カレーの具は挽肉が定番でした。その後、豚コマになったようです。魚肉ソーセージは、サラダや炒め物が多 かったように思いますが、私はおやつとして剥きながら食べるのが大好きで、中学・高校・浪人時代にはフライパンで焦げ目をつけて食べていました。
 
 さらに、僕の隣町で育った同級生には、次のような苦い記憶もあったという。

 幼いころ、私も東京の親戚の家に泊まりに行った時、そこの家のお兄ちゃんに「お前の家のカレーは肉が入っていなくて、 ソーセージだもんな!」と言われたのが妙にはずかしくて、やっぱり貧乏に思われたのかな、などと考えていた記憶があります。当時は、「田舎イコール貧乏」 というのが、幼い私の意識の図式でありました。

私たちのカレー論(その6)-('99/9/16)

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* CAMELって、カレー色だよね!

○ 1930(昭和5)年には、現在のヱスビー食品の前身である「日賀志屋」が「カレー粉」を発売している。この頃まで、日本人向きのカレー粉が各社で模索 されていたようであり、あの小さな缶入り「S&Bカレー」が登場して以降、僕たちの少年・少女時代(1960年代)に至るまで、日本国民の食欲を満たして くれる大きな味方になったのである。その間、太平洋戦争という戦時体制の下で、即席カレーおよびカレー粉は、軍隊用食料の優先物資になり、細々と生産が続行されたのであるが、戦後しばらく「カレーと言えばカレー粉」の時代が続き、即席カレーは忘れられた存在であった。

○ そこで、現在のハウス食品は、1949(昭和24)年に社運を賭けて「インスタントカレー」を新発売し、その翌年以降、ベル、キンケイ、テーオー、オリ エンタル、蜂、メタルなどの製品が出揃うことになる。1954(昭和29)年には、S&Bも即席カレー分野に進出し、〝カレー粉〟から〝インスタントカ レー〟の時代が到来したのである。

○ そうはいっても、インスタントカレーが福島の農村にまで定着するには、その後10年ほどの時を要したのである。固形のカレールーとして、僕たちの目に初め て飛び込んできたのは、東京オリンピックを前後し、全国に普及したテレビと一緒に流されたコマーシャルであった。なかでも1963(昭和36年)に発売さ れた「ハウスバーモントカレー」が印象的であり、この爆発的なヒットによって、カレールーは一気に農村の片隅まで行き渡ったものと考えられる。

○ その頃、僕の家でもカレー粉からカレールーに切り替わっていったのであり、前述の友人諸氏の思い出ともぴったりと符号するのである。このように、日本におけるカレーの誕生から、僕たちの物ごごろつく時代までをみてきたが、その後の展開については、「私たちのカレー論」のまとめを含めて、次回にゆずることにしたい。

私たちのカレー論(その5)-('99/9/16)

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○ 自分の体験を含め、いくつか「私たちのカレー論」を紹介してきたが、例えば「カレールーはいつ頃発売され、それが福島の農村で、日常的に用いられるまで 何年かかったのか?」などについても論証しておく必要があるだろう。そこで、日本におけるカレーの歴史を振り返っておくことにしたい。
 
○ ちょうど私たちが生まれる100年前の1853年、アメリカから来航したペリー提督が日本に開国を求め、その10年後、遣欧使節一行が一緒の船にに乗り 合わせたインド人の食事風景を見た、まさにその瞬間が、日本人とカレーとの初めての出会いであったと記録されている。1868年の明治維新以降、開国が進むなかで、西洋人の召使いとして雇われた者や出入りの業者の日本人を通して、他の西洋料理と共にカレーが伝わったのである。

○ そして1877(明治10)年には、風月堂の洋食メニューの中に、カレーライスが初登場し、値段はカツレツ、オムレツ、ビフテキと同じ8銭であり、当時のもりそばが1銭であったことを考えれば、カレーライスは高級料理の最たるものとしてデビューしたことがわかる。なお、カレーの肉は鶏肉か牛肉を用い、野菜はタマネギの代わりに日本ネギが使われた(タマネギは、その頃やっと日本に渡来したばかりであった)。それ に、当時はまだ量産されていなかったジャガイモも使われておらず、現在のカレーの具とは構成がかなり違っていたようである。

○ 1913(大正2)年に、現在のハウス食品となる薬種問屋「浦上靖介商店」が大阪で創設され、その後、ホームカレーの「稲田商店」を吸収し、1926(大正15)年に即席ホームカレー用の工場を設け、本格生産体制を確立し、翌年に「ハウスカレー」へと商標を改めたの。即席カレー(カレールー)が、商品として安定的に市場へ出回り始めたのは、昭和元年のことであった。しかし、生産量が限られていたこと、販売価格が高 かったことなどから、庶民の間に拡がっていくにはかなりの年月を要した。さらに、それが都市から農村へと伝わっていくのにも、一定の年月がかかったのである。

○ 東京では、カレーといえば「中村屋」が有名であり、僕も社会人になってから、職場の大先輩にご馳走になったことがある。自分としては、それほど美味しい ものとは思えなかったが、中村屋のカレーは高級レストランカレーの代名詞であったことを想えば、大先輩がこだわる理由も理解できる。ころは1927(昭和2)年、東京新宿の「中村屋」は喫茶部の開設とともに、本格的な印度風「カリ・ライス」を発売した。

○ 創立者の相馬愛蔵さんの娘婿が、 インド独立の志士であり、彼の意見を取り入れ、最上の鶏肉、米、10種類の香辛料を輸入して作ったそうである。当時のカレーライスは10銭~12銭で食べられたが、中村屋では80銭という高級化路線で、カレーとライスは別盛り、ピクルス等の薬味もつけ、1日に200食も出るほどヒットしたそうである。

私たちのカレー論(その4)-('99/9/16)

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○ 僕と同級生の農家で育った女性の友人が、次のような「カレーをめぐる思い出」を送信してくれた。

 わが家のカレーも、サバの水煮でやった記憶があります。やはり、うどん粉をフライパンで乾煎りし、その中にS&Bのカ レーの粉をいれて、ダマにならないように少しずつ水で溶いていくやり方でした(まだ、インスタントのカレールーは身近に市販されていなくて、これが一般的 だったと思いますが…)。 
 それから、うちで鶏を100羽ぐらい飼っていましが、卵を産まなくなった鳥は、母が首をしめて、それに沸騰したお湯を掛け羽をむしりとってから、解体してカレーに入れたり、その他の料理にしていました。
 この卵を産まなくなった古い鶏の肉は、少々固いのですが、何とも言えない味と独特の臭いがあって、私は大好きでした。「今、あの鳥を食べたい」と思い、 鶏肉を買ってくるのですが、やっぱりあの味とは違います。当時の時代環境の中で食べたから、とても美味しかったのかも知れませんが、母の味として懐かしい 思い出です。
 現在のように、お店で肉を買って来るわけではないですし、また、いつも鶏肉があるわけではないので、肉の代用として、サバの水煮の缶詰めも使っていたわ けですが、家まで配達してくれる魚屋さんでは鯨の肉をで売っていたので、鯨肉カレーを作ったこともあり、これがまたうまかったな~と懐かしくなりました。


○ ところで15年ほど前にスコットランドのエジンバラ城近くのカレーショップに入り、僕は「ホット」、友人は「マイルド」カレーを注文した時のことであ る。出されてきたカレーライスは、塩味も甘みもなく、ただ辛いだけで3~4口食べながら、「どうして英語では〝辛い〟を〝ホット〟と言うのだろう」と考え ていた。
 が、そのうち、お腹がゴロゴロとうごめき、〝ホット〟の深い意味を思い知らされた気がして、トイレへ駆け込むことになったのである。気の毒に思った店員 が、別の皿にカレーを盛ってきて、「これはマイルドなので、気を取り直して食べてくれ」と言っているようだったので、「サンキュー」とお礼を述べ、「日本では、少々の辛さには平気だったのに」と思いつつ、再チャレンジしてみたが、どうしても身体が受け付けず、「せめて福神漬けがあれば、ライスだけでも食べ られたものを!」と、今でも残念でならない。
 スコットランドで、インド人が経営する本格的なカレーショップであったから、あの味こそ本物なのだろうが、日本のカレーとは明らかに違っていて、日頃、私たちが食べているカレーは、日本人の味覚に合うような改良が重ねられ、いつの間にか、本物とは違う味になってしまったのではないか、と痛感させられたのである。

私たちのカレー論(その3)-('99/9/16)

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* ロシアのたばこである。

○ 魚肉ソーセージ好きの僕は、大学時代の友人に九州出身者が多い。加えて、「子どもの頃、学校帰りに畑から、さつまいもがまだ育つ途中で、細いうちに取り出して、小川の清流できれいに洗い、それを前歯でねずみのようにして皮をはぎ、スティック状にして食べたよね、と鹿児島出身の ヤツに言ったら、同じような体験をしていたらしく、いっぺんに仲良くなったんだ。みんなも、生でさつまいもを食べたことあるでしょ?」と前述の同級生たち に相づちを求めたら、「それは、お前のとこだけだよ」と冷たく言われた。
 そんな話を北海道出身の友人に伝えたら…

 小生、さつまいもを生でかじったことはありませんが、魚肉ソーセージカレーは経験があります。ただし、我が家は貧しい ながら、通常は豚肉カレーであったと記憶しています。それから山と海との交流と称して、石狩の貧しい漁村の家にホームステイしたときに、出されたカレーは 鯨の缶詰の肉だったので、とても驚いた経験があります。
 ところで、小生は小学校の低学年までは、あまりカレーが好きではなかった変わった少年でありました。大好物は、ジンギスカンとチキンライスでありまし た。好きではなかった時代のカレーの記憶は、最中(もなか)の中にカレー粉が入っているインスタントカレーであったような気がします。


○ このように、私たちのカレーと言ってはみても、一概にはくくれないほどの多様な食べ方をしていることが明らかになってきたので、次回はハウス食品のホー ムページなどを参考にしながら、「日本におけるカレーの歴史」にも触れつつ、さらに論証を深めていくことにしたい。

私たちのカレー論(その2)-('99/9/16)

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* 田町・串焼き「一徹」さんの入口にある絵です。
  先日(2006年12月15日)もお邪魔しました。

○ ところで、魚肉ソーセージの由来を見てみると(NIKKEI.1999.3.7)、腐敗しやすい魚肉の保存性の向上、西洋式のソーセージを魚肉で作るという目的で、大正時代から各地の水産試験場において実験が繰り返されていたそうである。

○ 初登場は昭和10年(1935年)ごろ、水産講習所の清水亘教授が「ツナハム」を試作販売したと記録されている。ツナだから、もちろん内容物は「マグロ」 であり、値の下がる夏場の有効活用策だった。一般には、私たちが生まれる2~3年前、つまり昭和26年ごろまでに、愛媛県の西南開発が生産した魚肉ソー セージ(原料はマグロや鯨、両端はタコ糸でしばっていた)を元祖としている。

○ 年間生産量の推移は、昭和28年の200万㌧から翌29年の4,000㌧と飛躍的に増え、その最大の要因は「第五福竜丸事件」だったらしい。昭和29年、アメリカの水爆実験で被爆した第五福竜丸はマグロ船であったことから、マグロのイメージと相場が急落した結果、被爆していない安価なマグロたちが、大量に魚肉ソーセージになったのである(昭和40年の18万8千㌧をピークに生産量は漸減し、平成に入ってから6万数千㌧で下げ止まっている)。
 
○ また、タコ糸ではなく現在のようなアルミ縛り(留め金)になったのは、大森製作所という埼玉県の会社が昭和30年に、画期的な「OM式パッキングマシ ン」を開発したからであり、魚肉ソーセージの大量生産を可能ならしめたと言われている(たかが留め金、されど留め金なのであり、その技術は今も健在だか ら、すごいよねぇ)。
 
○ 東は豚肉文化で、西は牛肉文化と区分されたりするけれど、魚肉ソーセージの消費量にも大きな地域差があるようだ。魚肉ソーセージの1世帯あたり年間購入 量(平成6年総務庁調査)によれば、①佐賀(1,730g)②熊本(1,694g)③長崎(1,603g)の上位3県が4位以下を大きく引き離している。全国平均が581g、最小の神戸は151gだから佐賀の10分の1もなく、いかに九州での消費量が突出しているかがわかるだろう。

私たちのカレー論(その1)-('99/9/16)

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* 茨城の名品「舟納豆」です。

▼ 前回の話を聞くまで、僕は「さばカレー」のことを失念していたのである。たしかに食べたことがあり、缶詰特有の柔らかいさばの骨が、カレーの味に混じり、 口の中で微妙にほぐれていく感触まで思い出したのであった。なぜ失念していたかと言えば、僕にとってのカレーといえば「魚肉ソーセージ」というイメージが 強すぎることに起因しているからだと思われる。
 ちなみに、高校時代の同級生5人と会食したとき、たまたまカレーの話題になり…

○ AくんとBくんは、ナベで野菜が煮えた頃合いをみて、うどん粉とカレー粉を溶かし込 む「まっ黄色」のカレーが、子どもの頃にひどくうまかったと主張し た。さらに、Aく んは先頃、それを自宅で再現し、妻や子にふるまったのであるが、誰一人として「美味 しかったよ、パパ!」とは言ってくれなかった、と のことである。

○ 同じ年代で同一エリアに育ったにも関わらず、「さばカレー」を食べたことがあったの は僕だけであり、とても意外な感じを受けたのである。

○ 女性であるCさんとDさんは、カレーの具は主に鶏肉であったらしく、僕たち男3人が 声を揃えて「カレーの定番の具は、魚肉ソーセージ」と言ったら、「 えぇーっ、そんなの食べたことないよ」と驚いていた。

串一徹(田町)の内装について

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2006年も師走である。そして忘年会の時節なのである。田町での忘年会ともなれば、串焼きの「串一徹」を外せない。というわけで、先日も4人でお邪魔したのである。今回、お店のご紹介は「串一徹」の内装の様子にしてみたい。1枚目は、洗面所の内側に取り付けられているカギである。なかなかの渋さで、けっこう新鮮だと思う。

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次はトイレのドアノブなのだが、ドア部分に使われている素材、波トタンに黒いペンキが塗ってあり、庶民的な雰囲気に仕上がっている。一見、とても安直そうに見えるけれど、きちんと計算された「思想」を垣間見ることができる。黒い色調に注目したからというわけではないが、その日、私はホッピーの黒を飲んだ。

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3枚目は洗面所の写真であり、アンバランスのバランスといった表現が似合うようなタッチがいいと思う。おつまみの定番は大根の漬物、そのままキャベツに味噌とマヨネーズのハーフキャベツ、もちろん焼き物はどれも美味しい。お酒の苦手は後輩は「ラムネがメニューからなくなったのは残念」と言っていたが、彼の好物は他にもたくさんあるのでした。やっぱりなじみのお店は、落ち着きますよね。いい年が越せそうです。

私たちのカレー論(プロローグ)-('99/9/16)

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▼ 今年も夏が来て、すでに夏祭りが開催されたり、旧盆過ぎの時期に至るまで、全国津々浦々、大小さまざまのイベントが予定されている。何といっても暑い日 にはカレーライスが食欲をそそり、汗を流しながら、フハフハと口にし、冷たい水をゴクゴクと飲んだとき、双方が強烈に身体の中で共振し合い、それぞれの旨 さが格段に引き立つのである。

▼ しかし、1年前の初夏(7月26日)、日本全国を震撼させたのは夏祭りでの毒入りカレーであり、それ以来、カレーライスへの風当たりが強くなったことも事実である。大多数の人たちは、お互いの善意を毎年のお祭りの準備や実行を通して確認し合い、とりくみの前段から気分も高揚しているわけだが、そのような場に信じが たい悪意が入り込み、海の物から山の物までの各種食材を、「カレー色、カレー味、カレー臭の中に取り込んでしまう」というカレーの個性的な特質の中に猛毒 を仕掛け、あのような惨劇が起きてしまったことは残念でならない。

▼ そこで、今回はカレーライスの復権の意味を込め、「私たちのカレー論」について、僕の友人たちなどからのメッセージを紹介しながら、3回にわって記載していきたい。
 まずは、日本海側の田園地帯で育ち、僕(1953年生まれ)よりも3歳ほど年下の友人は、「コーチ」というテレビドラマで話題になった「さばカレー」について、次のように述べていた。

>>>> そうそう、「さばカレー」の話しをしなくてはなりませんね。何故「さば」なのか。それは、(豚)肉の代用品なのです。 私が小学校の低学年のころは、スーパーマーケットなどというものはなく、近所にあったお店といえば、駄菓子屋と品揃えの悪い雑貨屋のみで、週2回程度は移 動バスが巡回して販売するような、米や野菜は基本的に自給自足の、けっこう田舎の村だったのです。
 当時、(豚)肉は農協が「定時定量(字は違うかも知れませんが)」といって、一定間隔で配達していたのです。食べたい時にいつでもあるというものではなく、しかも高級品だったのでしょうね、農家にとっては。
 ですから、母親は子どもの私たちに、何かしら動物性のタンパク質をと考え、「さば」の缶詰を入れたのだと思います(味噌煮ではなくて水煮のほうです)。今は食べたいとは思いませんが、妙になつかしい食べ物の一つなのです。<<<<

じゃがいもの思想(下)-('99/8/13)

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* 栃木県の道の駅「二宮」に建立された青年の二宮金次郎像

▼ というわけで、じゃがいもが「コロッケ」「ポテトサラダ」「ポテトチップス」など、お年寄りからお子さんに至るまで愛好され、じゃがいも自身の姿かたちを変えながら、けなげに生きてきた事実に僕は感動するのである。
 最後に、さつまいもとも共通することでは、多収性のほかに地下に根を張って育つことがあげられ、哲学の分野においても『ツリー構造・セミラティス構造からリゾームへ』というコンセプト(概念)が、一時期たいへん注目されたことがある。

▼ それを簡単に述べれば、ものごとや人間関係、組織、事業など、これまでは目に見える部分が重視されてきたけれども、近年では土の中(目に見えにくい場 所・空間など)に網の目のように根を伸ばしながら、種子(成果)を実らせる形態、たとえばインターネットに似たものが大切になっているということである。
 テレビドラマ『ラビリンス』の主題歌が、CDランキングの上位に顔を出し、かなりの人気である。聞き手に… ♪この巣にかかる愛だけを食べて あの子を逃がした♪ というフレーズが強い印象を与えたものと思われ、「関係性の網の目の中に漂う私」、つまりは「じゃがいも」みたいな存在形態が、にわかに脚光を浴びてきたのかも知れない。

じゃがいもの思想(中)-('99/8/13)

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▼ ところで、僕は上京してから約28年もたってしまったが、その間にじゃがいもの意図せざる自己革新というものに、ハンバーガーショップ、居酒屋、ファミ リーレストランななどで幾度も出会い、「じゃがいもはエライ!」と思ったし、「どうしたんだ、こんな変わり果てた姿になって!」と同情もしてきた。
 そこで、じゃがいもの性格を僕なりに規定してみたい。

第1に、じゃがいもは食糧であり、同時に分割できる種子である。
第2に、加工性が非完結的である。
第3に、安価で大衆的である。

 当然、「さつまいもだって、そうじゃないか」とご指摘の方もいることだろうが、過度な甘さと粘着性(ベタベタする感じ)といったものがあり、「さつまいも関連商品」の連鎖性や波及性に限界をもたらしている。変幻自在な「じゃがいも」とは、決定的な差異がある。

▼ また、さつまいもは第3の点、つまり安い値段と幅広いみなさんの支持という面で、じゃがいもに負けている。(注)
 身近な例をとれば、今や石焼きいもは高いものと受けとめられ、需要は下降の一途をたどっているし、冬場の寒い時期に限定されているのに対して、フライド ポテトをはじめとするじゃがいも消費量の伸びは、外食産業を中心に著しいし、四季を問わない需要網が拡張し続けている。
 たしかに、さつまいもも「いも焼酎」という形で復活し、健康志向の追い風を受けて酒場や家庭での焼酎の定着に貢献したのであり、古くは日本が食糧で困っていた時期に果たした役割だって忘れてはいけない。
 しかし、地球的に見れば、さつまいもは地域限定的な農作物であり、一方のじゃがいもは冒頭の堀田氏も述べているとおり、極めてグローバルな農産物であるという優位性も強調しておきたい。

(注)僕が育った時代、さつまいもはとても身近なものであり、食べ方も「ふかしイモ」、今では高価になってしまった茨城名産の「干しイモ」、さらには 臼でつき長方形に整えてから、高野豆腐のようにワラで編んで乾燥させる「イモもち」など、子ども用おやつの定番であった。

じゃがいもの思想(上)-('99/8/13)

▼ 『広場の孤独』などで著名な作家であった堀田善衛(故人)さんは、『時代の風景』という対談集(注)の中で…
「16世紀ごろの田舎の貴族の食生活というのは、大麦のおかゆと牛乳くらい。それと、森の中で年に2頭か3頭、イノシシが獲れるくらいのものでしょうね。 それを塩漬けにしておいた。そんな程度で、牛肉およびヒツジの肉なんていうものはお祭りのときにようやく口にできるくらい。かつてのヨーロッパの食生活の ひどさというものは、日本では考えられないほどでした。ですからじゃがいもの重要性というのは、これはたいへんなものです。ヨーロッパの人たちが、なんと かお腹いっぱい食べられるようになったのは、じゃがいものおかげなんです。だから、フランス語でじゃがいものことをポム・ド・デール(地面のりんご)とい うのでしょう。」
と述べている。
(注)堀田善衛、司馬遼太郎、宮崎駿共著。朝日文庫の178ページ。

▼ 僕の田舎では、じゃがいものことを「かんぷらいも」と呼んでいた。じゃがいもの一番おいしい形は〝小いも〟であろう。これを畑からガサガサと掘り出し、 桶に入れ、松の枝でこしらえた皮むき棒で、バチャゴチャゴロとかきまわしてやると、つるんつるんの小いもたちが、泥でにごった桶の中に輝いているのだ。
 つやつやの小いもたちをみそ汁にする。小いもとコンビを組むみそ汁の具は、絶対に丸々と実の入った「エンドウ豆」である。さやの部分は、少々固いけれど も豆(グリーンピース?)の甘みがおいしいのだ。市場に出回っているサヤエンドウは、料理に色彩を与えてはいるが、けっして味わうものとは言えない。
 小いもは、包丁を入れずそのままナベに入れ、間をおいてエンドウ豆を入れる。小いもの形がくずれにくく、味もほどよく浸透し、じゃがいも本来の味を保有し続ける。だから、小いもは煮っころがしなどにも良い。

ウンチの後始末について

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* なんだ、コレ? 自分でもどこで撮ったのか、忘れた!

1999年7月30日 ― by 水元正介

▼ 野菜の入ったザルを手に持ち、その子は「僕のおー、お父さんはわーっ、家庭菜園をしているーっ。イチゴ、キュウリ、トマトなど、わが家の食卓に毎日並 ぶ。これもそうであるーっ(そして、カゴの中のミニトマトやキュウリをムシャムシャ、ポリポリ、ウガウガと食べて見せた)。しかしーっ、その栄養はわが家 のウンチでーす。」と大きな声で叫んだのである。
 僕は、このような地域と家族がまだ残っているんだと、素直に懐かしく嬉しい気持ちであったが、わが家における爆笑の理由には明確な違いがあったようである。
 このシーンは、6月8日TBS「学校へ行こう」の「未成年の主張」という人気シリーズで、地方の中学校や高校を訪問し、校庭に集めた生徒が注目する中で、何人かが屋上にあがり、様々なエピソードや主張を叫ぶのである。
一緒にテレビを見ていた妻と子が、「きったねーなぁー」と言うのを制して、「それが一番うまい野菜なんだぞ。お父さんの育った頃は当たり前のことだった し、そうやって練馬大根、京野菜にしても、今で言うブランド価値を高めてきたわけだし……」と説明したのだが、残念ながら二人はもう僕の話など聞いていな かったのである。

▼ そもそも、スチュアート・ヘンリさんの著作「はばかりながら『トイレ文化』考」(文春文庫)によれば、「江戸時代の寛政年間(1798~1800年)に は茶屋が28,000軒を数え、文政年間(1818~1829年)に30,000軒にまで増えた。茶屋に、客がおとした糞尿が農家に売られ、店の副収入と して無視できないものになった。これらのことから、糞尿にはそれなりの価値があったことを物語っている。」(P195~P197)と記載されている。
 実際、僕の父はジャガイモなどに、わが家の人糞を用いていたし、隣近所のほとんどの農家でも、自宅から適当に離れた農地の片隅の肥溜めを保有し、野菜の種類や時期を勘案しながら肥料として使用していたのである。

▼ そんな話に、「とても想像できない」こととして、耳を傾けようともしないわが子について、最近、とても驚かされたことがあった。自宅から車で20分ほど の県道沿いに、国立高等専門学校があり、その向かいにイタリアレストランが開店したので、家族で行ってみた時の話である。
学生を意識したメニューであるため、その店の1品1品はボリュームがあり、食べ過ぎたらしく、わが子はトイレに向かった。でも、すぐに戻ってきて…
「お母さん、ここのトイレ和式だよ。どうしょう」
「それじゃ、ズボンとパンツ全部脱いじゃって、水のタンクの上においてから・・・・」
「うん、わかった」
などとやり取りし、再度、トイレに行ったのである。
当然、「どういこと?」って、僕は妻にたずねたのであるが、「和式のトイレではウンチが出来ないのよ。だって、うちの子は5年生になるまで、和式のトイレ でウンチをしたことがないでしょう」という答えを聞いて、「まるで、西洋人みたいじゃないか」と驚かされたのである。

▼そ ういえば、自宅と僕の実家では洋式トイレであり、妻の実家ではかわいい孫のためにと、和式トイレに洋式便座を装着するようにしていたから、子どもにとって和式トイレでウンチをするノウハウを学ぶ必要がなかったのであろう。
 わが子のウンチの後始末について、今まで知らなかったことは、父親として問題があると指摘されても仕方ないけれど、「この子は、和式トイレが苦手であ る」とは認識していたが、「ズボンやパンツの下げ方、ひざの開き加減、中腰でのかがみ方、ふんばりなどについて、まったく知らない」とは思いもかけなかっ たのである。
 ここで、再度「はばかりながら『トイレ文化』考」をひもとけば、「アフリカのサバンナ地帯のあるところでは、川の流れにそって水中にロープを張る。ロー プを留めている上流と下流の杭によってロープがどこにあるかがわかるようになっており、用便をする人は、川に流されないよう、ロープにつかまってしゃがん で水中に脱糞する。そして上流に向かってまたいだロープをお尻にこすりつけてきれいにする。水流と魚によってそのロープはすぐきれいになって次の人が使 う、という具合だ。」(P88)という地域が現在でも残っており、トイレの作法に関する地域的な差異や個人差には注目しておきたい。
(なお、トイレや下水道の話については、スチュアート・ヘンリさんの著作などを引用しつつ、引き続き書いていくことにする。)

▼ ところで、僕たちが子どもであったころ、噂には聞こえてきた水洗トイレなど、公共施設にさえない時代、子供心に考えて、それならば、川の中でウンチができるのかを実験してみることになったことがある(当時は水着など身につけないで泳いでいた)。
 ほとんど皆、水圧と肛門との微妙な関係で無理だったのに、1人だけ成し遂げたやつがいて、あれから35年ほどすぎた今も、皆の語り草になっている。それ を近くで見ていたKくんは、これでは飲み水が汚れてしまうと思ったかどうかは別にして、現在、東京都内で上下水道工事の会社を経営している。
ちなみに、紙はどのようなものを使っていたかと言えば、僕が物心ついてから小学生ぐらいまでは「福島民友」や「福島民報」という新聞紙であった。今では考 えられないことであるし、「きちんと拭き取れるのか。不衛生ではないか。痔になってしまうだろう」という心配が先立つけれども、それで事足りたのである。 (このテーマについては、日本人の食事内容の変遷とあわせて、別途、分析を加える予定である。)
 新聞紙と同じように、硬いといえば、僕はロシアを旅行した時にトイレットペーパーを30枚ほど持ち帰り、今も保有している。なるほど硬質であり、万年筆のインクのすべりもなめらかで、手紙ぐらいは書ける。
 実際に、それを使って手紙を書いたことがある。そして、手紙の最後に「実は、この用紙は……」と追伸でうち明けたら、すごく嫌がられたという思い出がある。

モラルハザード

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1999年7月10日―by 水元正介

▼この頃、何とも軽はずみな事件が多く、僕は義憤に耐えない気持ちでいっぱいである。1つ目の事例は、子どもが2人乗車していた車を盗み、泣きわめく幼児をダムに突き落とし、その内の1人を死亡させたという男性が逮捕された。
 自分の車を持っていながら、その車が欲しかったので盗むというは、余りにも思慮に欠けている。欲しい車を手に入れたければ、自分の財政状況をふまえ、買 い換えたり、自動車ローンを組むなどして、自分の責任の負える範囲で買えばいいのであり、それが無理ならば諦めるしかない。誰から教わることでもないが、 人間には「分相応」という常識的な判断があるというものだろう。
 たとえ、目の前に自分の欲しいモノがあっても、それを手に入れるには相応の手続きが必要なのである。それを省略し、「今、手に入れなければ気が済まな い」という衝動的な行動をとってしまうのは、人間として未成熟すぎること、さらには車を盗むにしても「時、場所、状況」ぐらいは考えてもいいはずなのに、 あまりにも「動機」が単純すぎると言わざるを得ない。
 その結末をみると、単なる車の窃盗という犯罪行為で済むべきことが、「窃盗、拉致、幼児傷害・殺人」という極悪非道な犯罪になってしまい、判決は当然にも極刑が予測されるので、何ともばかばかしい話ではないか。
 それから、ダムは水を貯めて、発電、治水、農・工業用水、水道水の安定的確保等に用いられものであり、決して子どもを捨てるような場所であってはならないことを強調しておきたい。

▼この事件には、「小さな子どもを残し、車から離れた親にも責任がある」という別の側面からの問題もあると考えられる。
 ここ何年か、主婦もしくは夫婦でパチンコに夢中になり、子どもを車の中に長時間放置したことによって、窒息、火災、あるいは脱水症状などで死亡した事件が連続して発生した。
 なるほど、パチンコは刺激性やギャンブル性に富み、癖になるほど面白いものだが、わが子を駐車場の車内へ置き去りにしてまでやるものだろうか。普通の感 覚ならわかることだし、周りの人々も注意するはずだと思うのだが、パチンコ店を訪れる人たちは、結果的にそれぞれが貴重な資金を奪い合うライバル同士とい う関係もあって、自分しか見えていないという関係があるからかも知れない。

▼第2の事例では、親子3人で外出し、昼食時になって幼子が眠っていたので、コインロッカーに預け、ランチを食べていた夫婦が戻ってみると、「この中に赤ちゃんがいる」と大騒ぎになっていて、駆けつけていた警察から厳しい注意を受けたという出来事である。
親や親戚が近くにおらず、核家族が進んでいる状況、さらには赤ちゃんが産まれれば気兼ねなく外出することもできなくなって、たまの休日に夫婦水入らずで食事でもするか、という気持ちは理解できないこともない。
 また、赤ちゃんを伴ってランチを食べるには場所的な制約があり、僕の経験ではファミリーレストランを除き、飲食店側としては「招かざる客」と思っている ようである。8年ほど前、当時2歳の息子を連れて箱根駅前の食堂へ入ったら、店員から思い切り迷惑がられたことがり、とても不愉快な想いをした。
 あの店員は特別に性格も悪かったのであろうが、食堂などの飲食店ではお昼どきが稼ぎどきであり、お客の回転率が勝負になるわけで、そんな時間帯に、幼子を伴った家族連れに来られては困るのであろう。
 たしかに、「食べこぼす」「じっとしていられない」「楊子やお箸をいじりまわす」「泣き叫ぶ」、あげくの果てに「ウンチ、おしっこ」などと、周りのお客 さんも嫌がるに違いないが、店員にとっては大切なお客様である。そこをうまくとりなすべきなのに、嫌な顔をされたらたまらないのである。それからというも の、子どもが分別がつくようになるまで、外食はファミリーレストラン以外行かないようにしていた。
 だからといって、子どもが寝入っていることをよいことに、ここは夫婦水入らず、コインロッカーに預けるというのは、まったくの非常識であり、これをモラ ルハザード(モラルの崩壊)と呼ばずして何と呼んだらいいのだろう。僕は、「事故にならずに良かった」では済まされない「心の退廃」を感じるのである。

▼3つ目の事例は、6月中旬、主婦がご主人の出張中に愛人と過ごすため、2歳の子にはおにぎり10数個、生後4か月の子には哺乳瓶1本分のミルクをあずけ て一夜放置し、翌日の昼頃に帰宅したら下の子が死んでいた、という無惨な事件である。取り調べに対して、彼女は「以前も同じようなことがあって、大丈夫 だったので…」と供述したという。
 これもまた、つかこうへい氏が『熱海殺人事件』で描いたモチーフ以上に、死に至らしめた動機の軽薄さや内面的な背景のなさだけが印象に残り、何やら空恐 ろしい気がするのである。貧乏、差別、虐待、抗争、怨念などの欠片(かけら)もなく、さらには狂気ですらないことが余計に不気味である。
 そもそも、不倫とは当人同士にリスクがあるからこそ、熱く燃えるものなのだろうが、そのことによって幼子を死に至らしめることは明らかな犯罪行為であ る。また、不倫という言葉には、本来、自分たちが社会から孤立することを覚悟の上で、モラル(倫理)に反抗していくという力強い意味合いがあった。しか し、今回の事例は悲しいかな、まさに不倫ではなく無倫(倫理がない)なのであり、モラルハザードの典型といってもいいだろう。 この3つの事件は、何を物 語っているのだろうか。
 かえりみれば、カミュは「太陽がまぶしかったから」という殺人の動機で、「不条理」をたくみに描いたけれども、第二次世界大戦で戦場になったヨーロッパの虚無感や喪失感などが、その背景として存在したと考えられるのだ。
そして、モラルそのものは歴史的・地域的に構築されたものであり、継続的にメンテナンスされなければ、容易に崩壊してしまうものなのだ、ということがわか る。戦争など少しも知らない僕ではあるが、日本におけるモラルハザードの現状を考えると、ある種の「精神的な敗戦」を迎えているのかも知れない、と思っ た。

* 7年も前に書いたことだけれど、2006年の状況は、ますます凄惨な事件が多くなっている。自殺が日常化し、子殺し、親殺し、いじめなど、どーなっているんだよニッポン!

洪水とアユについて

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* 武士の家の模型!

1999年6月25日-by水元正介

▼ 現在、滋賀県立大学で要職にある動物学者の日高敏隆さんは、新潮社の「波」に「猫の目草」というエッセイを連載しているが、その6月号で犬上川の改修に 至った経緯を書いている。ことの起こりは、1994年の台風24号によって堤防が大きくえぐりとられ、滋賀県彦根土木事務所の河川砂防課が改修計画を策定 したことから始まった。
 犬上川は、開設したばかりの滋賀県立大学の庭先を流れ、ちょうどそのあたりの川幅が狭いことが洪水の原因になっているので、この区域の河岸を切り取り、 川幅を広げコンクリートで固め、きれいな親水公園にして大学の一部ともなる人々の憩いの場にしたい、というのが土木事務所からの説明内容であったという。
 大学の目の前の河岸には、樹齢200年ほどのタブの木の美しい林があり、さらに東部の山のほうへと続く一帯には様々な動物や植物が生息しているので、そ の環境を変えてしまうことに対して、先生方からは「親水公園は見た目にはきれいかもしれないが、自然とはかけ離れたものだ。わざわざそんなものを作らなく ても、滋賀の自然はもっと美しい」という反対の声があがった。
一方、行政側としては、住民の安全を第一に考えるのが任務であることをふまつつ、「洪水はもうまっぴらや、川をコンクリート張りにして、今後、絶対に洪水 が起こらないようにしてほしい」という住民の声もあったが、「もうコンクリート張りの時代ではない」という認識に立ち、大学と共同で改修計画の見直しを行 うことになった。
それから、各部局での注意深い検討、さらには実際にモデルを作って水量や水流の試算など、相当な時間と費用と努力を必要としたが、その甲斐あって自然のままの林を残せる(川の中に島として残した)ことになり、今それに従った改修工事が進められている。

▼ ここで、僕なりに日高氏の気持ちを推測すれば、「やろうと思えば出来る」「各地の先鞭にしてくれ」ということだと思う。また、改修に関わった人々が 「300年、400年に1回程度の大増水が島を襲ったらどうする?そのときは仕方がない。自然とは本来そういうものだ。ドイツのライン川でもそういう計画 を立てている」という共通認識を持ったことに、僕は強く興味を引かれたのである。
 それは、「川である以上、台風がくると水量が一気に増し、氾濫もおこす」という当たり前の認識が、えてして忘れられたり、あるいは過剰に怖れられることによって、日本の河川は美しさを失ってきたのではないか、と思うからである。
 今回の犬上川の改修については、行政側と住民側との間に、たまたま滋賀県立大学の先生方が介在したことによる幸運もあったと考えられるのであり、公共工事全般にわたる第3者機関の必要性を物語っているのではないか。
 昨今、公共事業における「投資対効果」という面から、権威ある評価機関を設け、場合によっては工事計画を中止させる権限を与えるべきである、などの意見が強くなってきている。
 僕としても、たとえば、過疎地域には不必要と判断できるような鉄筋コンクリート造りの「文化センター」など、明らかなミスマッチをたくさん目にしてきた ので、その意見に賛成したい気持ちであるが、いきなり権威ある第3者機関ということではなく、計画の段階から直接利害を伴う住民および環境保全への知見を 持つグループや土木業者などを参加させ、公共工事の質を高めていくことこそ重要なのではないかと思う。

▼ さて、洪水といえば昨年夏(1998.8.27)に起きた那珂川の氾濫が記憶に新しいところである。災害に遭った方々にとっては思い出したくないことだ ろうが、6月2日のスポーツ報知では、前日のアユ解禁で例年にない釣果に喜ぶ釣り人の様子や、「ここ数年、不振だった那珂川だが、漁協組合やオトリ店、釣 り人は『今年は絶対にいい』と口をそろえる。洪水で川底にたまっていたヘドロや土砂が流れたからだ。生まれ変わった那珂川に天然のアユが大量遡上し、『昨 年の2倍の魚がいる』と地元の釣具店が語った」ことなどを詳しく伝えていた。
 そこで、僕は<那珂川や 洪水来たり 翌年の 釣り人あふれて アユ登り来る>という短歌を初めて詠んでみたのであるが、那珂川は昨年の災害を受け川相 は一変し、いまだに災害のつめあとが至る所に残っているそうだ。「洪水で川底にたまっていたヘドロや土砂が流れ…天然のアユが大量遡上」というのは何とも 皮肉な話である。
 僕たちの少年時代には、大雨が降り濁った流れも、翌日の午後あたりになると、川の水は澄んでいたと記憶している。その理由はいろいろあるだろうが、僕た ち周辺の山々に、雑木に代えて杉ばかりを植えてしまったことが一番大きいのではないか。杉山は雑木山に比べ、落ち葉が堆積しないので保水力に乏しいので、 山から流れ出す雨量が多く、しかも地面の土砂を道連れにするから、川の濁りが長引き、川底にも泥が溜まっていくのである。

▼ 最近の鬼怒川あたりでも、砂地にはヘドロが淀み沈んでおり、これでは「砂地を生息の場にしていた川エビや〝スナムグリ〟などの川魚類が生き延びることは難しいなぁ」と実感したのである。
 川を歩こうとすれば、今も昔もよく滑るから、すり足、忍び足で進まないと転んでしまうことになるが、川石や川底を滑りやすくしている原因を分析すると、 今と昔では決定的に違うのである。今は多くが悪臭のするヘドロであり、昔は水苔や水草であった。ちなみに、新鮮なアユに鼻を近づけてみると、たしかにスイ カの臭いがするのであり、川はそのような新鮮な生き物特有の臭いや香りを抱え込んでいたのである。
 それが、現在の川や湖では、清流系の川魚がますます減少し、多少の泥でも生き延びるフナやコイ、さらには海外から持ち込まれた頑強なブラックバスなどの天下になろうとしている。
 僕は、川をめぐる現状に絶望するばかりではなく、少年時代の川遊び、水辺の楽しみといったことが、今ではすごく懐かしいし、贅沢な遊びになってしまったのではないかと思いつつ、いつかは取り戻してみたいものだと切に願っている。

水の味について思ったこと (1999.6.16)

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* 会津・松平家の紋章!

▼ 僕たちはホタルを取る時に…

  ♪ ほーっ、ほーっ、ホータル来い こっちの水は甘いぞ ♪
  ♪ ほーっ、ほーっ、ホータル来い あっちの水はにがいぞ ♪

という歌を、必ずといってよいほど口ずさんだものである。
 真夏の夜、子どもたちは寄り添うようにして、一方の手に牛乳ビンなどにホタル草を入れ、もう一方の手に懐中電灯を持ってホタル取りに出かける。ホタル取 りというのは、元来、子どもにとってはスリルある遊びなのであった。あの頃の夜は、街灯などがあるはずもなく、本当に暗かった。漆黒の暗闇がぐるっと周り に存在していたのである。

▼ ホタルを呼ぶ歌について、僕なりに分析してみると…
(1) ホタルが寄ってくるような気がする、という願いや希望、願望が込もっている。
(2) 暗闇の中で、怖さを和らげ、勇気を与えてくれる意気高揚の意味がある。
(3) 物の怪(もののけ)を追い払らえるような気がする。
などの効果があったと考えられるし、実際に、ホタルが飛来しているのは田んぼや沼などの湿地帯であり、そこには蛇やトカゲも生息しているし、歩ける場所も限られているので、子どもたちにとっては、ホタルを呼び寄せるための実用的な歌であったのであろう。

▼ 物の怪などと、大げさな話ではないかと思わないでいただきたい。僕たちが子どもであった頃には、闇の気配の中で「物の怪」はとても身近で怖かったものである。
 現在の感覚でいえば、ヌルヌルッとするナメクジ、身体に吸い付く蛭(ヒル)、棘のある植物、牙を持つ蛇やトカゲ、血を求めて飛来していくる蚊・ブヨ・アブ・蜂などが、ちょっと油断すると自分のそばに迫ってきた。
 それに、お化けや天狗は出なかったけれども、ヒンヤリとする森の中のざわめき、鉱山跡の洞窟に響く水音、大きな杉の木に囲まれた神社境内の静けさなどの中にいるときなどは、「畏敬や怖れ」にも似た感情に満たされたものである。
 だから、手荒く扱うと壊れてしまうような、か弱いホタルを捕獲した後の喜びは大きく、まずは帰宅した家の暗い廊下などにホタルの入ったビンを置いて眺 め、蚊帳を吊り終えたら、その中でにホタルを放し、布団の中から移動しながら点滅する光を楽しんだものであり、自分たちをとりまく真っ暗な夜との対比が あってこそ、ホタルの良さが実感できたのであろうと思う。

▼ 現在、ホタルを呼べるような水は、一体どこにいってしまったのだろうか。僕たちにとって、水の味の違いといえば、輸入品を含めてコンビニエンスストアの中で味わうものであり、「ペットボトルや缶に入った水こそが〝自然の水〟である」と錯覚してしまうほどである。
 また、飲料業界ではニアウォーターと呼ばれ、水に近い清涼飲料水もブームになっており、昨年、JTが発売した「桃の天然水」の大ヒットは記憶に新しいところである。
 僕は、これらの現状が「自然指向の強まり」や「透明感へのニーズの高まり」の表れであり、良い傾向であると受けとめているし、取り立てて文句を言うつも りはないけれど、ホタルに歌いかけ、呼びかけたような「甘い水(注)」や、ある意味では辛口でキレのある「にがい水」も、「無料で、安心して口にできる」 自然環境が求められている時代なのだ思うのである。
(注)ここでの「甘い」は〝あまい〝と読むけれども、〝うまい〟とも読める言葉であることに、僕は日本語の深みのようなものを感じるのである。

▼ ところで、僕の母は1927(昭和2)年に生まれ、1947(昭和22)年に農家へ嫁ぎ、農作業はもちろん家事・育児等に専念した人であったが、親戚の結婚式に呼ばれ、初めて東京へ出かけたのは1964(昭和39年)のことだった。
 同行した僕にとっても、小学5年生になって初めての東京体験だった。好奇心旺盛な自分に比べ、母は元気がなくて、タクシーに乗れば車酔いしてしまうし、 「東京の水がこんなにまずいとは思わなかった。へんな臭いはするし、とてもまずくて飲めたものではない。早く福島に帰って、美味い(うまい)水を飲みた い」と嘆いていたことが、僕の心の中に今でも鮮明な記憶として残っている。
そんな母も、ちょうど8年前の6月16日に、膵臓ガンを患い死んでしまったのであるが、僕も46歳という50歳の足音を意識せざるを得ない年代になり、彼 女のようにホタルの里をこよなく愛し、「美味い水」のことを決して忘れなかった人間になりたいものだと思ったのである。
* なお、自分の母について、他界や逝去と言わずに「死んで」とか、「彼女」と表現するのはいかがなものか、というご指摘もあろうが、僕の素直な記述として受けとめていただきたいのである。

メダカの学校(1999年6月6日)

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* 近所の居酒屋への寄せ書き!

▼ 6月ともなれば陽差しも強くなり、マンション1階の小さな庭に咲くハーブが水を欲しがる午後2時30分、水道の蛇口をひねり、シャワーの人工的な雨を降らせてあげる。そうすると、お返しにとばかりにハーブの香りが庭一面に拡がってくるのである。
庭に散水しながら、僕は暑くなると清流が恋しくなり、さまざまな川遊びに出かけたりするが、今年(1999年)の2月18日、日本野生メダカが環境庁に よって「絶滅危惧種第二類」に指定されたというニュースに触れ、「あのメダカが絶滅だって、本当かよ。世も末だな」と、かなりのショックであったことを思 い出した。
 そこで、インターネット(ヤフー)によって「めだか」を検索してみたら、日本野生メダカ保存会は、次のようなメッセージを発信していた。
(1) 保護に関わりのないメダカの捕獲はやめましょう。
◎絶滅に拍車をかける結果となります。
(2) 生息地から他の生息地に放流することはやめましょう。
◎地域変異による遺伝形質を乱す結果となります。
(3) 自然を考えない単なる利益目的の捕獲・増殖・販売はやめましょう。
◎乱獲されると絶滅に拍車をかけ、無秩序な放流は遺伝形質を乱す結果となります。

▼ さらに、ヤフーでの検索を続けてみると…
1995年頃から、「野生メダカに保護の手を(福島県退職校長会会報/松風/第91号)、「野生メダカの保護と飼育・採卵・孵化方法」(岩瀬小学校教育研 究会理科部会の講演)、「インターネットによる里山と黒メダカの保護活動ついて」(日本野鳥の会郡山支部定例会)などが紹介されており、「絶滅危惧種第二 類」に指定された今年の2月18日にも、福島からのレポートが「NHKニュース7」で報道されるなど、僕の出身地である福島県はメダカ絶滅への警告や保護 について、先進的なとりくみを行ってきたようである。
 思い起こせば、僕の育った所でも夏の到来とともに、メダカは田んぼの水の取り入れ口や小川の水草のそばなどで、やたらと目に付くようになる。それを、手 ぬぐいですくい取ったりして遊んだこともある。別に食べるというわけではなく、たくさん取れるのが楽しくて、すぐに放してあげたものだ。「おーおーっ、お 前たち、そこにいたのか!」という感じで、メダカは僕たちのまわりにたくさん群れていたのである。

▼ メダカは童謡でも「メダカの学校」であり、小さいせいもあるだろうが、単体としてではなく、集団としての様子を次のように表現している。

 ♪ メダカの学校は川の中 そーっとのぞいて見てごらん ♪
 ♪ そーっとのぞいて見てごらん みんなでお遊戯しているよ ♪

川の中をのぞくと、群れているメダカたちがお遊戯をしているように見える。たしかに、僕の経験でもそのように見えたし、何とのどかで平和な風景であったことかと思う。それが今や、果たして「そーっとのぞいて中が見えるような川」は、自分の身近にあるのだろうか。。
かれこれ25年も前のことではあるが、一人旅の途中に寄ったスイスの小さな湖で、異邦人気分の僕は、旅の孤独を噛みしめるかのように、アヒルの糞が不規則 に2mほどの深さであった湖底に、ゆらゆらと落下していく様子を目で追ったことがある。現在でも、スイスの川や湖は清く澄んでいるという。
 それは、国家的にも住民側でも、自然環境保全を何よりも優先しており、同時にそれが大きな観光収入源にもなっていることを、経験的に熟知しているからだと思う。

▼ 僕たちは、メダカが生き延びられないような日本の自然環境を、どのように受けとめるべきなのだろうか。「環境変化に適応できないメダカは、生物として淘 汰されても仕方がない」というのは行き過ぎた進化論であろうし、メダカが住めなくなるほど、川を汚した人間が悪いことは歴然とした事実なのであり、メダカ という弱者に対して、強者として人間が環境保全という配慮を行うべきだ、と僕は認識している。
 そして、メダカを近くで観察したことのない人たちが、日本の多数を占めてきたことにより、「メダカの学校」という童謡は実感のないものとして流通し合い、次のような「スズメの学校」という替え歌が生まれたりするのである。

 ♪ スズメの学校は川の中 そーっとのぞいて見てごらん ♪
 ♪ そーっとのぞいて見てごらん みんなで仲良く死んでるよ ♪

 悲しいかな、今や川の中とは、とても「お遊戯」をイメージするような代物ではなく、死臭漂う汚れたイメージに近くなってしまったことの証(あかし)ではあるまいか。
 僕は、メダカの絶滅という危惧に関して、メダカさえ住めない自然環境を学校にたとえれば、まさに学級崩壊の教育現場と相応しているように思えて仕方がな い。また、「うさぎ追いし、かの山」(うさぎを追いかけた、あのなつかしいふるさとの山)という歌詞が、「うさぎ美味し、蚊の(多い)山」としか理解され なくなっているという。「メダカの学校」ぐらいは、このような童謡における「ふるさと」化現象に陥らないで欲しい、と願う今日この頃である。

僕をめぐる自然環境について(1999年6月1日)

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▼ 今、僕は40代の半ばも過ぎて、約8年前から新幹線通勤をしている。月額8万円強の通勤費は会社負担であり、「恵まれた職場に勤めていますね」などと、 聞こえの良さそうなサラリーマン生活をおくってはいるけれど、河川にたとえれば、雨続きのために水量が増した急流で、私自身は川底を転がる石のように身を すり減らしつつ、週末ともなれば大石の陰に身を寄せて、疲れをいやす日々なのである。
 東北新幹線車中から外の景色を眺めながら、大農家が長男の誕生を周辺に誇示するかのような鯉のぼりと吹き流し、溢れんばかりに水面がきらきらしている田 植え前の田んぼの輝き、風になびく黄金色の小麦畑、雑木林の新緑や紅葉、線路沿いに見える住宅街の草花の彩りなどで四季を感じとっている。
 とくに、早朝、大宮駅近辺からの雪をたたえた富士山の遠景には、「今日は1日、頑張れそうな気がする」と思わせてくれる何かがある。江戸時代や明治時 代、関東平野に住む人たちが西に富士山、東に筑波山を毎日のように眺めて暮らしたことを想うと、大地や自然との一体感という意味では羨ましい気がするので ある。
 僕は、山や坂の多い山村で育ったものだから、東京やその周辺で過ごしてみて、一番困ったのが方向感覚であった。〝方向音痴〟なだけなのかも知れないけれ ど、ビルなどの建築物群は僕の方向感覚を混乱させ、東西南北の見当がつけやすい「あの山、この山」に該当するような目標を見つけにくいこと、さらには都市 の風景や建物等に対する違和感があったからだろうと思う。

▼ ちなみに、日本の国内総生産は、OECD諸国の中でアメリカに次ぐ第2位であり、県内総生産をそこに組み込んでみると、上位20位までに10都道府県がランクインできる経済規模であるという。
 しかし、国民の意識を含めて、その内実はどうなのであろうか。国民一人あたりの公園面積、上下水道の普及率、高速道路網の整備状況、電信電話網(地下方 式)、国民の休暇制度、さらには福祉などの面において、欧米諸国と肩を並べるどころか、まだまだ未整備状態なのである。
 一人あたりの名目賃金や国民総生産では日本より低い国々でも、たとえばスペインにおけるサクラダ・ファミリア教会の建設に見られるような、100年、 200年をかけてでも成し遂げようとする気風があり、度重なる戦災等で崩壊した都市や建物についても、忠実に再現するという伝統がある。
 また、ダメな国の典型として、「英国病」と指摘されていた当時のイギリスに、僕は2週間ほど滞在したことがあり、ロンドンを囲み込むグリーンベルト地帯 の素晴らしさ、住民の質素な衣食生活、料金無料の高速道路網、教会を中心とした昔ながらの田園都市、ゴルフ場の超「低料金」、民宿(ファームハウス)での 家族的な対応、パブでの和やかな談笑、白夜の街頭で語り合う若者たちの落ち着いた表情など、日本に欠けている事象や風情に驚かされた。
 何よりも、昔ながらの自然環境を共有財産として大切にする、という国民全体の意識がたしかにあるということを感じたのである。それから、僕は8年前まで 川崎市に住んでいたけれども、幼児が思い切り走り回って、転んでも安心できるような公園をさがすのに苦労したものである。身近にあった公園は、芝生があっ ても入ってはいけなかったり、転べば怪我をしてしまうような堅い土壌であった。
 僕たちは、経済的には豊かになったのでろうが、子どもから高齢者まで、年代を問わずに共有できるような建造物や自然環境などについて、相当に貧困な状態にあるといえるのではないだろうか。
 
▼ ところで、国勢調査の「産業別の就業者割合」をみると、僕が生まれた昭和20年代では約半数(45.2%)が農家出身であり、僕たちの先輩を含めた多くの人たちの故郷は農業地帯だと言えよう。
 にも関わらず、田舎から都会へ出てきた僕たちは農業の急激な衰退を黙認し、農業従事者が急激に減少(注)すれば、当然のこととして山林や田畑、さらには 河川への手入れが行き届かなくなり、結果として水の汚れに代表されるような自然環境の悪化に対して、見て見ぬふりをしてきたのかも知れないのである。
 たとえば、農薬の過剰使用や河川工事などによって、魚などが住めなくなりつつある故郷の川を眺め、「きれいに整備されて良かったね」と思ってしまったのではないか。
 僕は、田んぼの泥の中を、中腰ではいずり回る「田の草取り」という重労働から農家を解放した除草剤(農薬)や、地域の重要な雇用の場でもあった河川工事 について、すべてを否定する立場ではないが、自然環境に手を加えるのであれば、もっと長期的・計画的な展望や慎重でやさしい対応が必要であった(今後も必 要である)と思うのである。
(注)産業別の就業者割合でみると、農業は1950年の45.2%から1970年の18.0%まで、10年ごとに10%以上も減少し、直近の1995年時点では5.5%まで激減した。一方、第3次産業の卸・小売業・飲食店とサービス業を合わせた産業分野が1950年の22.4%から、1995年では47.7%へと急増している。

▼ 〝金融先物の父〟と呼ばれているリチャード・サンドア氏は、「水や空気など、これまで無限でタダだったものが有限になり、値打ちが生まれている。そこに は必ず市場が成立する」として、途上国が二酸化炭素を吸収する能力を証券化し、先進国企業などに売りさばく「炭素証券」を開発した。この金融商品が、実は 「地球温暖化問題を解決に導く糸口」になろうとしている時代である。
 僕も10年ほど前から、「リゾート事業の失敗で、町役場の立て替えもできず、財源不足による破産の恐れ」などというローカルニュースを目にするたびに、 過疎地に位置する地方自治体こそ、ゴルフ場を典型とするリゾート開発などにお金をかけず、「手慣れていて、なおかつノウハウも保有している〝きれいな水や 景色を守ること〟に専念すべきであり、そのことが価値を生むはずだ」と考えていたし、その想いは今も変わらない。
 現在、僕には小学校5年生の息子がいるけれども、僕が父や母、叔父叔母、従兄弟・従姉妹、小中学校の先輩・友人たちと共有していた、そして今でも共有している自然環境の内実といったようなものが、わが親子には極端に少ないのである。
 それを理由にするつもりはないが、僕が小さかった頃の暮らしぶりを話しても、息子は理解してくれないし、食卓に並ぶ食材に込められた意味や背景にも無頓着であり、自分の好きなものだけしか口にしない。
 これは、家族同士の共通認識という観点からみても、まずい展開になってきていると反省し、実家近くの山々に連れて歩いたり、鬼怒川でわが子が溺れかかっ てから、「もう絶対に川では遊ばない」と言っている妻子を、「一度ぐらい溺れたからといって、それが何だと言うんだ。お父さんが子どもの時には、川で溺れ そうになりがら、みんなで泳ぎを覚えたものだ。川は楽しく、魅力的であるし、大人になってからも、うまくつき合うべき場所なんだぞ」と、もう一度説得して みようと思う。
 というわけで、山や海、きれいな水、そこに生息する生物たちとの対面などを一緒に経験する中で、僕をめぐる自然環境について今後とも語り継いでいきたい。

ハッポースチロール概論

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多摩川を眺めながら考えたこと('99/5/21)

▼ 僕は一時期、自分自身を「ハッポースチロール的である」と位置づけ、公言していたことがある。そのきっかけというのは、台風のあとの多摩川を電車のドアから眺めた時であった。水量を増し、勢いよく流れる川面でハッポースチロールの残骸が、きわだって目についた。
「あの軽さって、悲しくて同情できるな」と思ったのである。ハッポースチロールと僕の境遇は似ている、と感じてしまったのである。

風が吹けばとばされる

雨が降れば流される

土に埋めても腐らない

燃やせば毒が出る

 つまり、落ちつきがなく不安定で、しかも全く内容のない自分の生活と、川面に流され自らを貫けず「どうでもいいよ」的に、悲しく揺れるハッポースチロールの生き方とが同調したのである。
 世の中には、「空虚であるから有効である」というものがあって、おおかたのハッポースチロールは「有効期間」が短い。物を運んだりする時の衝撃緩和剤、 水道管の凍結防止材、カップラーメンやお総菜の容器、様々な飾りつけや舞台用素材、魚の保冷運搬箱などに用いられ、1回限りで使命を終える。例外として は、夏休みの子ども用工作素材に再利用されるぐらいである。
 このように、それ自体としては何の役にもたたず、捨てさられ、忘れさられるモノである「悲しきハッポースチロール」的な人間も、今後の成熟社会(何がどのように成熟しているかは定かではないが)に、形態は違っても数多く存在しうる、と僕は確信している。

▼ このようなことを、或る同人誌に書いたのが1987年の8月であった。それから、12年が経とうとしている今、企業のリサイクルに熱心にとりくんでいるソニーが、ついにやってくれたのである。
 「走りながら溶かす!?〝発泡スチロール回収車〟現る」という新聞広告に、僕は心躍ったのである。そこで、ソニーのホームページを閲覧してみたところ…
<そもそも発泡スチロールは、石油を原料とするポリスチレンを蒸気の熱で約50倍に膨らませて成型・加工したもの。つまり約98%が空気でできている。軽 くて優れた緩衝性がある上に、熱を伝えにくく水に強いといった特長を持っているため、食品包装材から家電製品の包装材、さらには建築資材など幅広く活用さ れている。ところが、こんなに便利な発泡スチロールでもひとたび使用済みになってしまうと、かさばって輸送コストがかかる不燃物、というゴミ処理上の問題 児になってしまっている。>
と、かつての僕が思ったことと同じような記述があった。
この「問題児」を、そのまま放置しなかったソニーは偉い。それも、発泡スチロール回収車で、不要になった包装材である発泡スチロールを次々と回収しながら、走行中に5~6分間で発泡スチロールをどんどん溶す仕組みである。

▼ さらに、その溶解液をミカンの皮(=生ゴミ)から抽出しているのであるから、二重の意味で素晴らしい。「オレンジオイル」の成分であるリモネンが、発泡スチロールを溶かし、再び元のポリスチレンを取り出すリサイクルシステムである。
 また、リモネンは発泡スチロールだけを溶かすので、付着している粘着テープやゴミなどは溶けずに残り、不純物の除去も簡単であり、しかも、常温で溶かすために従来の方法に比べ、物性劣化のほとんどない純度の高い再生樹脂が得られるそうだ。
 ソニーの中央環境研究センターでは、今後ともリサイクル技術の開発や環境に配慮した素材の開発にとりくんでいくらしいが、世界を相手にしている国際的な企業はさすがだなぁ、と思ったのである。
 何はともあれ、問題児であるハッポースチロールの一部が、リサイクルという循環構造に組み入れられたことは喜ばしいことである。かつて、「ハッポースチ ロールと僕の境遇は似ている、と感じてしまった」自分ではあるが、良き家族や友人、上司、同僚などに恵まれて、「こんな僕でも少しは役に立てるし、それほ ど捨てたものではない人生だ」と思えるようになってきた今日この頃である。

▼ 循環できないモノのつらさや悲しさについては、僕なりに以前から注目してきたわけであるが、循環といえば「水」の形態が典型的であろう。液体、個体、気体へと形を変える変幻自在性こそが、地球環境はもちろん、人体さえも基本的な面で維持しているのである。
 また、「水」は国際会計基準における「キャッシュフロー」とも似ている。経営の透明性と健全性を担保するには、企業の損益計算書や貸借対照表だけでは見 えにくい現金の流れの明確化が不可欠であり、これまでのような売上高やシェア獲得至上主義ではなく、現金の良き循環こそが大事になってくる。
 地球環境では、「水の汚れ(空気の汚れも雨水で測定できる)」が重大な問題とされ、企業経営でも子会社を含めた「キャッシュフロー」の健全さが求められており、「倫理コード」や「地球環境憲章」などを制定する企業が増えている。
 水も淀めば腐敗するし、企業の現金の流れが不透明になれば生き残っていけない時代、ということなのだろう。世界中から、あれほど優秀と評価されてきた日 本の企業群も、長引く不況の中で今なお苦戦を強いられているが、企業経営層や従業員の努力や頑張りを含め、国際会計基準への的確な対応をきっかけとして、 再生・飛躍していくことを望みたいものである。

わき水の正しい飲み方

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5月のある晴れた日に('99/5/14)

▼ 5月8日、私は故郷(福島県H町)へ帰って来ました。母の日を前に、8か月ぶりに家族づれで母の墓参り、カーネーションをあげてきました。それから、「今が旬」ということもあり、父と一緒に竹の子採取に出かけました。

▼ 行き先は、私の実家から2㎞ほど離れた山間(やまあい)であり、今は藪になってどこが道であったのかわからないほどですが、以前は連なるように小さな田 んぼもありました。わが子は「虫がいる」、半ズボンだったので「足が痛い」「嫌だこんな所」などと口にしていたのを無視し、私はセリをわき水の近くで引っ こ抜き、ワラビもつんで、のびるも取りました。

▼ 竹の子は30数本取れたので、親戚にも持っていきましたし、栃木の近所の方々にも配りました。わが家の役割分担は、海のものはカミさんの係(宮城県I市 の海のそばで育ちました)、山のものは私の係にしているので、竹の子やワラビを湯がいたり、セリのおひたしを作りました。

▼ 昨日(5月9日)は竹の子とさつま揚げの煮物、今朝は、竹の子ごはんでした。美味かったなあ。わき水に繁茂していたセリは、さすがに香りが違うっていう 感じでしたね。「季節を食べる」「春を味わう」ことの贅沢、来春からはもっと田舎に帰って、山菜取りをしよう、とカミさんと確認し合ったところです。

▼ 父やおじさん、おばさんから山菜採取・調理・保存のノウハウを受け継ぎたいな、とも思っています。自分としては、見よう見真似でやっていますが、もっと美味しい食べ方があるはずですから。

▼ 昨夜(5月10日)、マクドナルドのパート社員用に貸与されるスカートの裾上げを、カミさんから頼まれ、裁ちばさみで布地を切り、まち針をさして、表地 から返し縫いにしました。私は、元来、イライラした時などに針を持つと気持ちが落ち着くタイプです。自分のスラックスの裾上げは、今でも手縫いで私がやり ますし、学生の時に母のもんぺ(女性用の農作業衣)の端切れで作った札入れは、現在もデスクの中で、厚生年金手帳などの入れ物として活躍しています。とく かく、私にとって「イライラしたら、縫い物をするに限る」のです。

▼ 当夜は、別に欲求不満などでイライラしてはいなかったのですが、「どうしても、パパの方がうまいから」ということで、針を手にしました。

▼ 青の生地に合わせて絹糸を選び、指でしっかりと伸ばし、爪で「パチン、キリリ」と弾けば、縫っている時に糸がからみにくい。まずは表地を目立たぬよう に、丈夫なように縫い上げてから、裏地も処理し、約1時間程度、心穏やかな心境になれたのです。おまけに、カミさんにも喜んでもらえ、仕事では得られない 達成感がありました。

▼ 途中、針で頭髪をカサカサとやったら、「何してんだよ?」と小学5年生の子どもが聞くので、針の通りが良くなるようにしてるんだ、と説明してあげました。

▼ それにつけても、糸を通す時、確実に目が遠くなったなあ、と痛感しました。私が子どもの頃、縫い物は主婦やおばあちゃんの主要な仕事でもあり、自分は糸 通しの役目でした。それで、見よう見真似というのでしょうか、端切れなどを使って、自分も布袋などを縫い、いつの間にか裁縫技術を身につけていたわけで す。

▼ 三つ子の魂何とかで、大人になっても子ども時代に体験したことは、たとえ男であっても、針を持つ行為が、その人にとって「童心にかえる」ものであれば、心落ち着かせるものになり得るのです。

▼ それから、私の得意技としては刃物研ぎがあります。そろそろ、包丁のキレがわるくなっているようなので、5本ぐらいまとめて、今週末にでも研ぎの感触を味わってみようと思っています。

▼ これも、小さな頃からの経験の延長であり、水を砥石になじませ、研がれるたびに水が粘着性を帯びたら包丁に水を足し、汚れの中から滑らかになってきた刃 先の研ぎ具合を確かめる。そして、仕上げの段階になり、親指で刃先に触れる時の「さわさわ」とした感覚が、私は何ともいえずに好きだ。

▼ ところで、5月6日、私は何年ぶりかで午前4時頃から5時30分まで、新宿のとあるスナックにSさんと一緒に居ました。そこは、相変わらず、手入れ抜き の雑然としたお店でした。私は、新宿という街で30年近く、あのようなお店が続いていること自体に、懐かしさと嬉しさを覚えてしまいます。

▼ ママさんは、ハイキング的な山歩きを趣味とし、そこで採取したものを店のおつまみとして、例えば「ヤブレガサ」の天ぷら、蕗の煮物、ふきのとうみそなどが出されます。

▼ その夜、僕は「わき水の正しい飲み方」というものをママに教えてあげました。それというのは、まず、喉がかわく頃合いをみて、わき水のある所をさがすこ とから始まります。見つかったら、フェイスタオルもしくは手ぬぐいで汗をふき、「ふーっ」とため息ひとつ。そこで、おもむろに(この〝間〟こそが大切で す)小さくもなく大きくもないという頃合いの蕗に見当をつけ、茎を15cmほど残して葉を採取します。

▼ 茎を葉の表面の側に折り曲げ、それを中心に葉を丸く包み込み、茎の先端を取っ手のようにすれば、柄杓(ひしゃく=取っ手付きのカップみたいなもの)のよ うな器になります。そこに、わき水を汲み、葉に付いたゴミを洗い流すために、1杯目は捨ててから、2杯目を「こくこく」とやるのがたまらなくいいのです。

▼ というわけで、前夜の夕方から翌朝まで、立ち飲み屋、雀荘のはしご、そして新宿のスナックと、久方ぶりに、はめをはずしたわけですが、7日は早朝6時 30分、職場近くの牛丼のお店でA定食を食べ、そのまま、しゃきっと仕事をこなしましたよ。かなり眠かったけれど。

弁護士のお姉さんについて

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('99/5/6)最近のテレビ番組から(2)

▼ 1999年4月26日、午前0時45分からのNTV「ドキュメント99」という番組には、度肝を抜かされ「現実は小説より奇なり」という意味でも圧倒されました。関西の大平光代弁護士に関するドキュメントでした。

▼ 新聞のテレビ番組欄を見ていて、これは見なければいけないとチェックしていたのですが、ビデオに撮っておけば良かったのに、と後悔するほどの驚くべき内 容であり、テレビというメディアの可能性はもちろん、読売新聞と日本テレビは嫌いなのですが(僕は大の阪神タイガースファンである)、「おう、おう、読売 新聞購読してやろうじゃないの!10年分でもいいよ!」、というほどに感激しました。

▼ 彼女は、中学の時にひどいいじめにあって、近くの河原で割腹自殺をはかりましたが、偶然そこを通りがかった人に助けられました。その後、不登校、非行に 走って、両親からは絶縁(勘当)され、荒れに荒れた末、15歳にして暴力団組長の妻となり、背中には一面墨を入れました。後援会で、「私は、こうして極妻 (極道の妻)になりました」と語る口調と、凛(りん)とした品格のある表情には迫力がありましたよ。

▼ そんなある日、道で実父の知り合いに呼び止められ、こんこんと説教をされたとのことです。無視しようとしたけれど、何度も、何度も説得され、転機になっ たのは喫茶店で、彼女が学校や友達、世間への恨み辛みを言ったら、「たしかに世間も悪いが、そこから立ち直ろうとしないお前も悪い」と大きな声で、真剣に 怒鳴りつけられたからであったと言います。21歳のときにそれまでの生活から足を洗い、実父の知り合いを養父として立ち直ろうとしましたが、なかなか思い 通りにいかず、「やっぱり、私はあの子たちに復讐したい。とても忘れることはできない」と弱音をはくと、養父は「復讐したらいい、でもその仕方はいろいろ あるんとちゃうか」と言ってくれ、そこから勉強が始まったのです。

▼ 中学校からの勉強をやりなおし、宅建、司法書士と難関の試験を突破して、ついに司法試験に挑戦しようとしました。ちょうど、そのころ実の両親との関係も 修復していた時であり、実父は末期ガンにかかっていたそうです。弁護士バッチを見せてあげたい、という強い想いもあったようで、見事一発合格。実父は、 「オレは、いい子どもを持って幸せだ」「一緒に写真を撮ろう。その写真をお墓に持って行くんだ」と語ったとのこと。

▼ その話しをしながら、「荒れていた頃の私は、自分のことしか考えられなくて、ひどい子どもでした。実は父を蹴ったりもしたのですよ。まだまだ恩返しがしたかったのに…」と涙ぐんでおりました。

▼ それからの大平さんは、主に少年犯罪の稼ぎの悪い仕事と言われている国選弁護人として、誠心誠意の仕事に明け暮れていますが、10人の少年事件を扱い、そのうち1人ぐらいしか立ち直らせることはできず、時々むなしくなることもあるそうです。

▼ 取材中に扱っていた少年Aくんは、、両親が離婚し祖母との二人暮らし、仕事先を抜け出してお金に困ると祖母から調達していたらしく、そのことを「本人のためにならないから、絶対やめるように」と大平さんは、喫茶店で厳しく言い聞かせている場面もありました。

▼ 少年Aくんは、大平さんの弁護により少年院行きは猶予されたのですが、紹介された会社の寮を抜け出し、出勤せずに以前の不良仲間とつき合い、あげくの果てに自分の彼女に暴力を振るって、被害届を出され少年院送りになってしまいました。

▼ 現在33歳の大平さんは、府内のマンションに実母と二人暮らし。学校崩壊に悩む先生方の集まりに呼ばれ、自分の体験をとおした講演も引き受けるようにな り、今回の取材の話しがきたそうですが、自分の恥ばかりではなく、両親の恥をさらすことにもなるので、「どうしようか、お母さん」と聞いてみたら、意外な ことに「テレビに出てもいいよ。あんたの経験を見て、一人でも死のうとする子どもが減れば、それだけで価値があると思うわ」と言ってくれたそうです。

▼ そして、番組の最後の頃になり、自宅で後ろ向きになって、サッとブラウスを下ろした(脱いだ)わけですが、「エーッ!そこまでやるの!」と僕は本当に ビックリしました。そこには、彼女の横顔、うなじ、そして細い背中一面の入れ墨でした。最近の僕の感動体験としては、こんなに大きなものは久しぶりのこと で、「自分という人間は、一体何をしてるんだろう!情けないったら、ありゃしない。」と思いました。と同時に、「僕は、もっと真剣に生きなければいけな い。」と勇気づけられました。

明るくない農村について

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('99/4/26) 最近のテレビ番組から(1)

▼ 1999.4.21のNHKクローズアップ現代を見ていたら、福島県浪江町の話しでした。肥育農家に貸し付けた不良債権を、様々な手法で取り立て、浪江農協をつぶさずに、公的資金の投入の上で、隣町との統合を果たしたという内容でした。

▼ 現在の組合長は、農業をしながら、農機具メーカーのトップセールスマンであった経歴をもち、前組合長に対しても3億円余りの返還訴訟を起こし、自分も含 めた当時の理事報酬の返還(一人当たり100万円前後)を全額回収し、全職員の退職金半額という合意をとりつけ、支払い困難な肥育農家に対しては土地・建 物を競売にかけて一部でも回収する、という福島県の中坊(弁護士)さんを思わせる人物でした。

▼ 農協=現在のJAは(「農業共同組合法」に基づく法人組織)は、高度経済成長の頃から本来の目的で話題になることよりも、農産物価格への圧力団体、海外旅行での得意な行動、JA共済に代表される豊富な資金力、最近では公的資金の投入などで注目されてきました。
 
▼ 現在は、食管法の廃止、農産物の自由化、産直の拡大等によって、組織の統廃合が強いられ、効率的な運営にとりくんでいるようですが、農家のJA離れは年々進んでいる傾向にあるようです。

▼ 僕が以前「病死牛肉の運命」で書いた頃(1970年)は、たしかに阿武隈開発(大規模畜産地帯構想)などもあり、多くの肥育農家が農協からの融資を頼りに、大規模化を進めた時代でした。

▼ その後のことは、我が町でも大きく手を広げた人ほど被害が大きく、夜逃げなどもあったと聞いてはいましたが、浪江町の実状は本当に悲惨なものでした。土 地と家屋を競売にかけられた老人夫婦(80歳前後の感じ)の負債額は、何と3億円でした。肥育経営をしていた長男はすでに亡くなっており、よくもここまで 放置されていたものだ、と私は情けなくなりましたよ。

▼ 負債額のうち、何割かは利子相当分であろうと思います。要するに改善策のないままに放置されていた、そのことが私は残念でなりませんでした。荒れ果てた 牛舎、農協のマークの入った飼料(最も一般的な飼料は「キングビーフ」というブランドだったと思う)サイロなど、高校時代に自分が慣れ親しみ、見慣れたも のが無惨な姿で写されていました。

▼ もう一人の方は、ちょうど僕と同じくらいの年代でしたが、負債額は1億円を越えており、浪江農協のリストラ策として1,500万円の返済を求められ、理 事長とも相談の上、会社を経営している親戚が浪江農協からその額の融資を受けて返済することになり、肥育農家を継続できることになりました。

▼ しかし、残額を月々返済するとはいっても、個人の農家経営とうことを考えれば、1億円を越える負債を計画的に返済していける農業や畜産の環境にはないと思います(1億円といえば、いくら低金利とは言っても、年間の返済額は相当なものになるでしょう)。

▼ 農家にはある程度の資産があり、それがかえって支払い困難な負債になるまで傷を広げてしまったのかな、と僕なりに分析していますが、予想以上に福島の農 村部崩壊は進んでいるんだなあ、と痛感させられました。僕たちが育った頃の農村は、たしかに貧しかったけれども、少なくてもこのような不幸(ただ放置さ れ、資本の論理に蹂躙される)は見受けられなかったですし、大家族、子沢山の中で元気に過ごせたという想いがあります。

▼ 僕らの育った昭和30年代の頃から、農村はずっと嫁不足・婿不足が解消されず、衰退し続ける農・畜産業に外部資金を投入したあげく、莫大な負債をかかえてしまって現在に至っている、という農家がたくさんあることを再認識させられました。

▼ 浪江農協の職員の方も、全員が退職金半額に同意できる、ということに驚きを感じました。地域的な事情(農協をつぶせない)、さらには債務者からの取り立てや理事報酬の返還も行っているのに、自分たちだけ無傷ではすまされない、ということなのでしょう。

▼ 僕のようなサラリーマンだったら、多額の住宅ローンなどを抱え、もしそんなことになったら、ただでさえ支給額の減額が想定され、不安定な退職後の年金生活、つまりは老後のくらしに赤信号がともることなって、とても人ごとではありませんでした。

▼ 農村には、それに耐えられるだけのストック(余裕・財産)があるのだろうとも思いますが、浪江町の農村全体を巻き込んだ瀬戸際の判断であったと言えますし、解説者の方も「これは、うまく進んだ数少ない事例でしょう」と述べていました。

▼ 同じ福島、そして農家出身の僕としては、とても胸の痛くなるような番組でしたが、現実としてしっかり認識しておこうと思った次第です。

自分の身体なのに、ままならぬ!

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* 黒磯のゴルフ場(ショートコース)に展示されている乗用カート

○ プロのゴルフトーナメントも終わりを迎えている。ラフの芝も枯れてきたらしく、インタビューを受けた選手も「打ち込まないといけないから、難しいです」と述べていた。これからの季節、僕たちアマチュアゴルフにとっては、ランがでるし、ラフの芝の抵抗も少なくなるから、夏場よりもスコアをアップできるチャンスなのだが、いかんせん、気温が下がってくるので、自分の身体が思うように動かず、ボロボロになってしまう確率も高い。

○ これまで、プロのトーナメントは25年ほど前に、ジャンボ尾崎さんが優勝した「フジサンケイ・クラッシック」最終ラウンドを見ただけである。川奈カントリークラブだった。雰囲気を感じるだけで精一杯だったような記憶がある。明日、チケットが手に入ったので、久しぶりに見に行こうかと考えている。「間近で、プロの技をじっくりと拝見できるだけの年輪は重ねてきた」と思うから、いい勉強になると期待しているのだ。
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