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いい水は常に動いている('2000/9/14)

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* 2006年のS先輩からのお歳暮


▼ 前回も紹介した前田さんは、現在も㈱アクアテックに勤務し、全国の河川やミネラルウォーターの水質検査を手がけているが、小論の後半で「東京の神田川の水や不忍池の水も嗅いでみました。これは生臭くて脂臭い、石油系の臭いがします。日比谷公園の近くの、お堀の水は排気ガスの臭いがしますね。新宿の雨水もやはり排気ガス。それから亀戸あたりの水は、どういうわけか皮革のような臭いがしました。流れが止まって淀んでしまうと、水の上を漂っている空気を取り込んでしまうんです。いい水になるためには、常に動いていなければいけない」と述べている。

▼ 私の少年時代あたりまでは「いい水」が周りにふんだんにあり、「水」が飲料水の定番商品になる現実までを予測できなかった。それに、前田さんに反論するわけではないけれど、今夏・今秋の水害をみれば明らかなとおり、大局的にみて、水は常に動いてはいるのである。だから、水には人間の力では制御できない莫大なエネルギーを持っている部分と、日常生活や企業活動の中でたやすく傷ついてしまう繊細な部分があり、それらをふまえた慎重かつ長期的な対応が求められているのだろう。
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ある水道局員のお仕事('2000/9/14)

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▼ 昭和22年に東京都水道局へ入った前田さんは、平穏に仕事をこなしていたが、昭和30年代になってから多摩川の水が急激に汚染され、安全な水道水を供給するために、何十倍もの塩素や中和剤、活性炭を投下しなければならなくなったそうである。

▼ 東京オリンピックが開かれた昭和39年頃から、「水道の水がまずい」「カビ臭い」といった苦情が相次いだものの、当時、臭いを測定する機械はなく、人間の臭覚を頼りに水の匂いを分析する必要があり、試験室にいた人間の中から前田さんが「水の匂いの検査員=ティスター」として選抜された。臭気トラブルへの対応、トラブルの予測される浄水場を中心に、全国で10人以上のティスターが配置されているという。

▼ 前田さんの卓越した点は、再現できない匂いに対する自分の感覚(暗黙知)を、次のような言葉に翻訳したことであると思われる。

・ 貯水池系の水<岩肌に苔のようにくっついているヌルヌルした藻の匂い>
・ 利根川系の水<朝霞の水は白砂糖、江戸川の水は黒砂糖の甘い匂い>
・ 春先の水  <雪解け水が川に流れ込み、双葉のイメージの匂い>


▼ さらに彼は、土、艶、潤い、靄、透明度、乾燥度といった言葉を使って、水の匂いを識別するとともに、水は「その通り道にあったものを、匂いの中に抱きかかえてくる」という素敵な表現をしている。この小論から、私は地道で目立たない仕事においても、「その道を究めていけば(一芸に通じる)素晴らしい見地に立てるんだなあ」と実感させられたし、自分の仕事に対する心がけの点でも参考になったのである。

9月10日は下水道の日('2000/9/14)

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▼ 9月20日は全国下水道促進デーにあたり、2000年で第40回を数えると同時に、明治33年に旧下水道法が制定されてから、ちょうど100年を迎えるということで、朝日新聞では1面全部を使ったキャンペーンが掲載された。

日本の下水道の歴史をみると、

前2500~2000年 三台丸山遺跡にトイレの跡
1000年 平城京、平安京に雨水排水路
1600年       太閤下水(背割り下水道)
1868年~1877年 外国人居留地地に下水道(横浜、神戸)
1872年(明治5)   岩倉使節団がヨーロッパの下水道を見学
1885年(明治18)  神田に下水道を建設
1886年(明治19)  コレラ流行
1888年(明治21) 森鴎外ドイツから帰国、下水道の必要性を説く
1890年(明治23)   赤痢、チフス流行
1900年(明治33)  「下水道法」制定
1912年(明治45) 東京で本格的に下水道工事始まる
1922年(大正11) 三河島処理場(散水ろ床法)誕生
1930年(昭和5) 名古屋市・堀留熱田処理場(活性汚泥法)誕生
1958年(昭和33) 「新・下水道法」制定
1970年(昭和45) 「公害対策基本法」制定、「下水道法」改正


▼ ちなみに、日本の下水道の普及率は、平成12年3月末の全国平均で60%(25年前の昭和50年3月時点では20%)であり、大都市圏の普及率(約80%~96%)に比べて、地方(約20%~30%)での遅れが特徴的である。投資効率の面や、日本の地理的条件、さらには人口の過疎と集中などの背景もあるのだろうが、国の政策から問題なしとはいえない。たとえば、地方への投資 を考えるとき、道路や河川工事の面では過剰であり、下水道などの面では不足していることがわかる。

▼ 公共事業が、住民の生活まわりのニーズや地域の自然環境 にも配慮しながら、中長期的にとりくまれたのかどうかを考える上で、下水道普及率などにも注目しておくべきなのだろう。次回は1931年生まれ、1947年から東京都水道局に勤務し、水質検査に携わってきた前田学さんの「水のメッセージを利く」という小論を紹介するが、彼の鼻の感度は百億分の1の濃度まで嗅ぎ分けるというプロフェッショナルである。

塙町(はなわまち)の町おこし(2000年9月)

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* この大地で、私は生まれ育ちました。


▼ 私の生まれ故郷は福島県の阿武隈山系南端の内陸部、久慈川の上流を挟むような形で東西に拡がっている塙町(はなわまち)である。2000年9月12日、TBS午後7時54分からの「学校へ行こう」を見ていたら、

「本日の未成年の主張スペシャルは、町おこしのためにぜひ、この番組に来て欲しいという投書があったので、塙町にやってきました。」

というV6のメンバーの話を驚きながら聞いたのでした。

▼ 秋の収穫祝いを兼ねて、久慈川で催される「俵引き大会」など、ここ最近の塙町のとりくみには、少なからず個性らしきものを感じたりしていたけれども、町おこしのためだから、きっと役場も協力したのだろうが、ロケ場所も学校ではなくて、しっかりと見覚えのある町役場の屋上であった。そして、

「うちのパパはお医者さんをしていまぁーす。でも、何をしているかと言えばあー、チンチンを治していまぁーす」
と主張したのは、6歳の少女だったが、それはそれで良いとしても、60歳代後半と思われるおばちゃんには参った。

▼ 彼女は、塙町の嫁不足に関する時代錯誤的で、大きな勘違いを含む、かなり独特の見解を大きな声で次のように述べたのであった。
「嫁が来ねぇがらってぇ、服装に気つかってっけどぉ、それはぁまぢげぇだぁ。男は丈夫が一番だあ~。若い頃、うちの父ちゃんなんか、毎晩のように来たもんだぁ~。心配すんなぁー、嫁はさがしてやっからぁー。でもぉー、種付け(たねつけ)わぁ~、自分でやれぇーっ。」

「おい、おい、これって全国放送なんだから」

と、私は唖然としながら見ていました。冷や汗が出ましたよ。

▼ 町役場もだいぶ古くなってきたなぁー。住んでいる人々は相変わらずであり、牛や馬と同次元で、男女関係を把握しているところなどは、日本的な村落共同体の精神が残っているのかなぁ。今でも、家の牛に子牛が生まれたら、近所となりに赤飯を持っていくのだろうか。かつて、私の父も相当の世話好きで仲人の名手ではあったけれども、あのおばちゃんは、あのおばちゃん流のやり方で、「嫁探し」をしているんだろう。などと考えていたら、少し頭がクラクラしてきた。それほど、あのおばちゃんの印象は強烈でした。

薬漬けの鶏には問題がある…

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○ 遅ればせながら、そのまんま東さんの宮崎県知事当選に「おめでとう」と述べておきたい。本名・東国原県知事は、さっそく「鳥インフルエンザ」問題の対応で、連日のようにテレビ報道されている。そこで、気になるのは「予防接種をしようにも出来ない理由」である。諸外国では「鳥インフルエンザ」用のワクチンを使用しており、日本でも備蓄されているそうだが、その効果に疑念を残していることに加え、「すでに何種類もの抗生物質を接種している鶏に対して、これ以上の薬物投与は限界にきている」らしい。

○ 地鶏やブランド卵は別にして、日ごろ私たちがお世話になっている鶏卵およびチキンは、食生活に欠かせない定番であるが、よくよく「鶏の見になって」考えてみれば、生産性とコストとの均衡を保つため、目的達成ただその一点をめざし、身を削りギリギリの毎日を過ごしているのだと思う。狭い針金の獄舎みたいな小屋に、何千羽という単位で過ごし、産卵の効率が落ちてきたら、鶏肉市場を安い値段で送られる。ブロイラーに至っては、生まれた瞬間から市場に出るまで、綿密なプログラムにそってエサを食べ続けるしかない。

○ その昔は、鳥類として空も飛べ、オスメスの求愛、産卵、子育てを「つがい」として達成することもできたであろう。鶏たちの先祖の嘆きが聞こえてこないか。せめて、人間たちよ、自分だけで「スローライフ」や「ワーク・ライフ・バランス」などに心がけようとせず、鶏たちにも立ち止まる余地を与えようではないか。また、人間にとって「風邪とは、身体の機能を回復させるためのツールである」という説があるように、現在の「鳥インフルエンザ」も、単なる伝染病として対処療法を実施するだけではなく、根源的な考察をしてみるべき時期に来ていると思う。

わっかない亭の「八角軍艦焼」は美味でした…

○ 決して、自分を正当化するわけではない。先日、「外見はヒドイけど、お父さんは中味のある人だと信じていた」と、カミさんに念を押されたとき、私は「甘いね、それは。オレって中味もないよ。それでも生きているってところがミソだよ」と述べておいた。それはさておき、容貌は不細工だが好人物であったり、仕事の出来たりする人は数多い。同様に、見てくれがわるくても、すこぶる美味しい物がある。

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○ 八角である。港区内のわっかない亭には「八角軍艦焼」というメニューがある。裏返しの形でお皿に盛り付けられ、カニ用のスプーンみたいなもので、魚肉を中央にかき寄せてから食べるのだ。それをひっくり返すと、まるで軍艦のような容貌である。皮の硬さといったら、「これを最初に食べた人、食べようとした人を私は尊敬する」と思わざるを得ないほどの姿かたちなのだ。しかし、旨い、絶品である。いつか私も、「八角のような味わい深い人間になりたい」と思ったのである。

ああ、豊島園(その3)('2000/8/23)

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▼上昇と落下、この単純な様式こそが人々に一定のスリルを与え、水面への突入という設定とあいまって、ぞくぞくするほどの面白さを与えてくれるのかなと思いますが、私はもう「真っ平ごめん」ですね。(ちなみに、豊島園の花火も美しかったのですが、花火の快楽というのも上昇(期待感)と爆発音・炸裂の後の気 だるい残り火の落下という様式であり、単純で明快な一瞬を楽しむことでは、飛び込み台やジェットコースターなどと似ているのでしょう。)

▼ だから、私は何ごとにおいても、軽々しく「やれば出来る」などとは言わない方がいいかも知れない、と再認識させられた次第ですし、たしかに12、13歳の頃、私は高所からの飛び込みを得意にしていましたが、3メートルともなれば、あれから何と35年ぶりのことで、体重に至っては確実に1.5倍しているわ けですから、ホントに目の前が真っ白になりました。結婚が遅く、47歳にもなってから早朝ランニング、5泊6日のキャンプ、プールでの飛び込みなどに、小 6の子どもにお付き合いする「つらさ」ということを痛感している今日この頃です。

▼ 身も心も自信喪失でボロボロ状態の私ですが、「階段から転がる豚のように転落せず、3メートルの飛び込み台から飛ぼうとした豚は気絶したり、進水後におぼれたりもしないで、最悪の事態は避けられた。」という「運の良さ」を信じ、今後ともがんばっていきたいと思いました。(了)

ああ、豊島園(その2)('2000/8/23)

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▼ そこで名誉挽回をしようと考えたことが、なおさら恥の上塗りになろうとは…。中年男の「できるはずだ」という無謀な思い込みが、3メートルの飛び込み台に挑戦させ、その順番を待ちながら、私の後ろに並んでいた小4年生ぐらいの女 の子から「おじさん、腕から血が出ているよ。大丈夫、今からやるこの飛び込み台でケガしたの?」と心配され、「いや、ちょっとそこで転んだの。よーっし、この飛び込み台から頭から飛び込むと海水パンツがズレ落ちちゃうから、ひもをきつくしめて、おじさんがんばるからね。」と答えたりしていたのでした。

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▼ そして、いよいよ自分の順番になり、踏み切り台まで行ってみたのですが、「あれ?この高さって予想と違うし、ちょっと出来そうにないなぁ」と引き返し、恥ずかしながら女の子に「お先にどうぞ」と先にいってもらいました。意を決した2度目の挑戦も足が震えてしまい、情けないことに後続の2、3人に先をゆずり、あきらめて逃げ帰りたい気持ちで一杯でしたが、「今、ここでこれを成し遂げれば、空を飛ぶ夢がみられる人間になれるかも知れない。」などと訳のわから ない理由をつけて、まさに目をつぶって頭から行かせてもらいました。が、その怖かったことといったら、思い出すだけでもイヤになるぐらいですし、そのあとにもわが子と一緒に、もう一度3メートルの飛び込み台に足からトライしましたが、本当にオシッコをちびりそうになるとは、あのことでしたよ。(つづく)

ああ、豊島園(その1)('2000/8/23)

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▼ ウィークデーは、本来業務に加えて情報システム関係でせわしく過ごし、飲み会にもしばしば誘われ、土日は「待っていました。出かけましょう!」と妻や子が言うわけです。8月5日は、栃木の人間でありながら、豊島園に11時間滞在し、花火まで見ましたが、その後の豪雨で電車は1時間も遅れ、家に着いたのは深夜の1時近くでした。豊島園で、ゴロゴロしていた時間を活用して、パソコンのネットワーク関係のマニュアルを読み、「これは、やれば自力でもできるかな?」という感触 を得ました。

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▼ その豊島園ですが、私はかつて得意であった飛び込み台で、この際、妻や子にいいところを見せようと、最初の1メートルで競泳の時のように頭からきれいに決めて大成功しました。しかし、その直後にプールから上がって、足を後ろに送ろうとしたら、そこが階段になっており、足を踏み外し、ひっくり返ってしまい ました。あやうく、転がる豚のようにゴロゴロと転落しそうになり、「パパって、案外かっこいい。」と思ってくれた妻子にも、結局は他人のふりをされてしま いました。幸いなことに、5か所ほどの擦り傷ですみましたが、1週間ほどヒリヒリと痛みが残りました。(つづく)

20年余ぶりぐらいに('2000/8/16)

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▼ 20 年余ぶりぐらいにキャンプをしてきました。テントなど、用具の進化はめざましく、たいそう便利になったものだと感じました。バーベキューをしてみましたが、準備から片づけまでの間、大きいめ、小さめ、すごく小さめなど、アリの多さが目につき、テーブルや煮炊きする場所へ、踏みつぶされることを前提にしているかのように、次々にやってくるのです。
ふらちにもテント内に入り込もうとするもの、テントに登っていくものなど、飛来する蚊、羽虫などと一緒に、賑やかなほどでした。キャンプした場所の外灯にも、たくさんの虫が集まってきており、「おっ、あれはクワガタだよ。どうしたら取れるかな?」といった会話も聞こえてきました。

▼ カミさんが、卓上ガスコンロに手ナベをのせてごはんを炊き、子どもはひたすら虫やアブ、蜂を怖がり、私は久しぶりに炭をおこし、バーベキューのためのセッティングをしました。食事を終えて、シャワーを浴びにいき、その後でトランプをしたりして過ごしました。深夜近く、テントの外に出て、私は一人で30分ほど静かにしていました。森のささやき、風の音、闇の深さが体感できたようです。こんな時間は何年ぶりのことだろう。山深い農村で育った頃の自分が、身体の芯からよみがえってくるような気持ちになり、いやに今夜は空気が美味しいと思ったのでした。

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▼ 翌朝、私が早く目を覚した理由は、森に住む生き物たちの「歓びの声」のせいだったのかも知れません。こんなにたくさんの動植物と共に生きている自分を実感させられました。このようなうるさいほどに群生している昆虫たちについて、ハーバード大学のスティーブン・グールド教授は…
「…生命の出発点はきわめて単純なもので、それには変化する能力が備わっていました。あらゆる方向に試行錯誤を重ねるうちに、たまたま複雑な形態や仕組み を持つものも登場してきたのです。…しかも、複雑なものの方が生存に適しているとはいえず、数を見れば少数派でした。最も多い生物は、35億年にわたって 常に単細胞の細菌でした。多細胞生物を見ても、最も成功しているのは昆虫なのです。昆虫は100万もの種がありますが、人間もその一員であるせきつい動物 は4万種(昆虫の25分の1)しかいません。」
と述べています。(朝日新聞、「新世紀を語る」2000.7.31)

※ 昼休みに、こんなことを書いていたら、今は東京で暮らしている田舎の同級生から「今晩、3~4人で一杯やろう」という電話があり、さっそく待ち合わせ場所の有楽町マリオン前に行くことにしました。

村田英雄さんの歌には魅力がある…

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○ 子どもの頃によく耳にした記憶があった。カラオケで、先輩が渋い演歌に声をからしてるメロディーの中の一つだった。余りにも個性が強すぎるその歌を覚えて、人前で披露することなど考えもしなかった。それが、私にとっての「村田英雄」だった。しかし、昨年の5月の「美空ひばり降臨」に近いかたちの、MDに録音した「村田英雄ヒット曲集」を初めて聴いたところ、東北新幹線車中で形容しがたい「衝撃」を受けたのである。

○ おそらく、詩吟教室に5年も通っているので、日本の伝統芸能的なものに興味を引かれ、その延長線上にある浪曲とか、謡曲、民謡等にも心が動くようになってきたのだろう。村田英雄さんの歌には、ある種の迫力があり、私にはそれがたまらなく魅力的に感じられた。そして、「花と竜」が村田さんの歌であることも改めて知り、ぜひともマスターしたいものだ、と思ったのである。大ヒット曲である「皆の衆」、実にいいのだ。その他にも数曲、ぜひマスターしたいと強く思った。

ペコちゃんが泣いているぞ…

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○ 昨日の帰り、「職場近くの100均ショップに、タイガースのユニフォームを着たペコちゃんのフィギア付き『りんごジュース』が売られている」という情報を入手したので、3本購入して帰宅した。昨年末から、家族への手みやげとして、ケーキなどを買ってきたのだけれど、「何、これ?」とか「別のが良かった!」とか「センス悪いよなー」などと、おおむね評判がよろしくなかった。

○ しかし、今回のりんごジュースに関しては、「ひゃーっ。これって、かわいいよね~」とか「いいじゃん!」とか「お父さんにしては大ヒット!」など、予想外の絶賛を得たのである。一方、昨夜のニュースでも不二家の不祥事が大々的に報道され、もしかすると企業存続の危機になるかも知れないという。

○ 長年、従業員たちの汗と涙で日々育ててきた「ペコちゃんブランド」を、コスト削減・利益優先という安易な経営陣の怠慢によって、元も子もなくしてしまうのは悲しいことである。そして、経営チェックの社会的な機能を有する労働組合についても、残念ながら、その責任を問われることになるだろう

この子も18歳になります!

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○ カラオケのおもちゃのマイクを手にして、その気になっている16年ほど前のわが子です。今年のお正月休み、もうじき18歳になる子どもを含め、家族3人全員でカラオケボックスに出かけました。これまで、子どもは少年特有の照れもあってか、親の前では歌いたがりませんでした。

○ しかし、2歳の頃の写真をみると、けっこうノリのいい感じで、少なからず素養があったものと再認識しました。実際、先日のカラオケルームでは、積極的に持ち歌を予約していましたし、小中学校時代の「超」音痴を見事に克服していたのです。私は、そんな彼をみながら、「自分たち夫婦の子育ては、あながち間違いではなかった」と思った次第です。

「水葬」試論(おわり)-('99/11/2)

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▼ 話を本題に戻すことにするが、今の日本では「死の認定」や「死体の処理」が国家的な管理下にあり、川への身投げや川での事故死による遺体を「土左衛門」(注)などとは呼ばなくなった。
 〝土左衛門〟で思い出したことがある。日曜日のTBSで午後7時から放送されている「からくりテレビ」には、「ご長寿早押しクイズ」コーナーがあり、司 会者から出された問題は「どこでもドアや四次元ポケットを持ち、どら焼きの大好きなアニメの主人公は誰でしょう」というものだった。

▼ そこで早押しボタンを押したおじいちゃんは、大きな声で「土左衛門」と回答したのである。テレビをみる側には大爆笑ものであり、私も腹の底から笑わせてもらった。しかし、彼ら(90歳前後の老人たち)にとっては、実際に土左衛門を見たり聞いたりしてきた経験の方が、ドラえもんよりもはるかに馴染みが深かったという事実を見逃してはならないと思う。

▼ 病院で死を迎えることの多い昨今、私たちは親族の死に立ち会うこと以外、死体に触れる・死体を見るという経験が極端に少なくなってきているし、「自分はいずれ死ぬべき存在である」ということを含め、「死」や「死の儀式」について考えることを回避しているのかも知れないが、3匹のハムスターの死と水葬を通 して、私が死んだら「火葬して粉々に骨を砕き、故郷の久慈川へ水葬されるのもいいかな」と思ったのである。

▼ というわけで、「水葬」という形態をよくよく考えてみれば、自然に還る葬り方(魚類のエサ、プランクトンの養分など)としては合理的であり、ちょっと気味は悪いが火力を用いない省資源的な葬り方のシステムであったのであろう。そして、川は古来から人類に多大な恵みをもたらすと同時に、洪水などの水害を引き起こし、インド人にとっては宗教的な理由から今でも一つの死に場所であったり、多種多様な物体を自らの内部に溶かし吸収すると同時に、人々や民族の喜怒哀楽を飲み込み、あるいは様々な物を運び・移動させながら、現在も営々と流れ続けているのである。

(注)「土左衛門」とは、おぼれて死んだ人のふくれた死体のことであり、昔、この名を持つ力士の太った様子が水死人と似ているため、水死人のことを土左衛門と呼ぶようになったと言われている。このことから、当時は水死人の発生頻度も高く、人目に触れる機会も多かったと推測できる。

「水葬」試論(2)-('99/11/2)

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▼ ところで、川にはその他にもいろいろな物を流したり捨てたりするが、身近なことでは旧盆を終えた後に、仏壇などを飾った供え物一式を川に流す風習がある(現在では、8月17日にゴミ収集車が集めてくれる)。
 今夏、無期懲役刑から釈放され、熱烈歓迎のうちに故国韓国へ帰国した金嬉老氏の報道を見ながら、私は「川に物を捨てる人もいれば、川で拾う人もいた」ことを鮮明な記憶として思い出したのである。

▼ それというのも、私が高校1年生の頃(約30年前)に逮捕された金嬉老氏は、獄中で1冊の本を書き、いかに自分たちが差別されてきたかを訴え、その中で強く私の印象に残っていたことが、8月17日こそ一年で最良の日であり、日本人が川に流した供え物を拾い、家族みんなでお腹いっぱい食べられたという記述 あった。

▼ 今回の論点は、民族差別の問題や日本の戦争責任といったことではないので、これ以上立ち入らないが、当時の私が「川に物を捨てる側の人間であった」と気づかされたということでは、忘れられない出来事だったのであり、自分の物の見方や考え方を単数ではなく、複数化・多元化させてくれるきっかけになったのである。

「水葬」試論(1)-('99/11/2)

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▼ 2代目のハムスターは寿命といわれる2年近く生き、その間、義父が入院していたこともあり、たびたび妻の実家である宮城へ一緒に行った。数時間かかる自動車内での過ごし方にも慣れてくれ、「ハムスターは車酔いしない」こともわかった。

▼ でも、終わりの3か月ほどは皮膚病がひどくなって、獣医に看てもらったり、免疫力を高めるためにプロポリスを水うすめ、スポイトで与えたりしたが、砂場で冷たくなっていた夜、ひまわりの種と一緒に紙袋に包み、近くの思川(おもいがわ)に流してきた。 

▼ 3代目は、小型のジャンガリアンであった。すばしっこくて、人に慣れにくいタイプだが、私が深夜帰宅した時などは、健気(けなげ)に回し車で運動しており、私に気づくとエサを求めてカゴの針金部分に寄ってきて、疲れた我が心をなぐさめてくれた。この3代目は老衰死であったが、老化現象はとくに目に表れ、涙をためながら足取りあやふやに、カゴの中を手探りで歩き回ったあげく、ガクッと前のめりする感じで死んでいった。

▼ 私はその瞬間を見ていたので死に目に会えたわけだが、小さな生命の精一杯の日々を回想しつつ、その亡骸を鬼怒川に流してきた。(ちなみに、今、わが家には4代目のゴールデンハムスターが元気に暮らしている。)

「水葬」試論(はじめに)-('99/11/2)

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▼ 妻は犬を飼いたいと言い、私と息子は猫がいい、という動物大好き一家なのであるが、マンション暮らしなので、その代償行為として4年ほど前からハムスターを飼っている。
 1代目は、晩秋にうちへ来て2か月もしないうちに、私がこたつ掛けを不注意に踏んでしまった時、その下敷きになった。まだ温もりの残るハムスターを手の 平に載せ、「ごめんね」と心の中で謝ったが、口の中から血を吐き絶命した。その後の1週間ほど、私は妻と子から「殺人者」「人殺し」などと呼ばれたものである。

▼ さて、「どこに葬るのか」と家族で話し合った結果、身近なところであるベランダの下に埋め、「いつまでも忘れないでいようね」ということになり、ハムスターの遺体は3か月ほどそこに眠っていた。
 しかし、妻が電話で母と話している時に、ハムスターの話題になって、ベランダの下に埋めたことを報告したら、「なんということを!小動物は、その昔から川に流すものだ」とひどく叱られ、翌日の休日に遺体を掘り起こし、家族で鬼怒川へ葬ったのであった。

▼ 私は、「これって〝水葬〟ということなんだな」と思い、川(河)には様々な物が流されてきたことを再認識したのである。
 私が育った家では、ずっと猫を飼っており、当然にも毎年のように子が産まれ、「捨てちゃいやだ」「それは駄目だ」という飼い主側の親子での確執があって、結局のところ父や母が「目が開いて、可愛くなる直前」を見計らい、子どもたちに気づかれないよう近くの沼や川へ捨ててきた。

▼ 小学3年生の頃、「もう少し待って」と、親にせがんで残してもらっていた子猫2匹を捨ててくるように命じられ、目の開いてしまった可愛い盛りの子猫を近くの小川に流し、私は後ろを振り返ることもできず、かすかに聞こえた「延命・救助」の鳴き声を振り払ってきた時の切ない気持ちを、今でも鮮明に思い出すことがある。

食生活を考える(その4) ('99/12/)

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▼  11月10日、テレビ朝日のニュースステーションで、三重県に残る千枚田(棚田)の特集が放送された。先祖代々、400年前ほどから耕されてきた当地の2,500枚にも及ぶ棚田は、高度成長期からバブル期にかけて減少し続け、数年前には約500枚まで落ち込み、「このままでは、小さな頃から馴染んできた 千枚田が、本当になくなってしまう」という強い危機意識のもとに、地元の高齢者を中心に「千枚田保存会」をつくった。
 自分たちだけの力では現状維持すら限界があるので、「一口3万円」の会員をつのり、棚田1枚の米の権利を販売したところ、遠くは東京在住者に至るまで多数の応募が集まって、現在は1,200枚ほどの棚田まで回復したとのことである。
 秋の収穫時期には会員が集い、地元の人たちと一緒に稲刈り、自然乾燥の準備までを行っている様子を見て、僕は「これって、いいなあ。自分は、まだ稲刈りができるかな?」と懐かしく、お年寄りの日焼けしたにこやかな表情、手や顔のしわ1本1本に素晴らしい価値があるんだな、と感激した次第である。

▼ それに、日経新聞(1999.11.14)の「列島プラザ」の中で、宮城のカキ養殖が広島を追い上げており、その要因は漁業者が植林し、海をきれいにするという意識改革がジワリと効果をあげてきたからだろう、と記述されていたことが印象に残った。
 気仙沼湾の漁民が10年前から始めた、「漁師が山に木を植えよう」という地道な運動は、昭和40年代から50年代にかけての赤潮被害が運動の出発点になっている。唐桑町は小さな町なのに、農業、林業、漁業は別々で相互交流は少なかったが、赤潮被害をきっかけに、「気仙沼湾の生物を育てている森や河川が危ない。湾に流れ込む大川上流の室根山に木を植えよう」という行動につながったとのことである。
 もちろん、木といっても杉ではなく、保水力が高い上に、枯れ葉の堆積による豊富な養分が期待できるブナやミズノキを、農家から提供された気仙沼湾沿いの山に、慣れない手つきで植え続けてきたのだ。唐桑町の畠山さんによれば、「最近、カキ養殖場でウナギを時々見かける。ウナギは、きれいな海のバロメーター だから、やっと運動の成果が出てきてうれしい。」と語っていた。

▼ 気仙沼の南の志津川湾でも、6年前から木を植え始めた。そのきっかけは、海と山の青年たちとの対話であり、山の人たちは自分たちの森を提供し、海の人 たちが木を植え、44ヘクタールについて、伐採を極力抑えて森を保存する「水源涵養(かんよう)保安林」の指定に向けて申請したそうである。
ただし、1997年に政府の公共事業抑制政策で新月ダム建設計画が凍結されているものの、再開に向けた動きが懸念されている。ダムと河川の関連について、松永北海道大学教授は「ダム建設により、河川から海に流れ込むケイ酸塩が減少し、ケイ素の殻を持たない植物プランクトンが増え、赤潮が発生しやすくなる」と分析している。
 地元住民の知恵や工夫も手伝って、宮城県漁連のカキの共販金は100億円を超えることが確実視され、Uターンしてくる人たちも増え、カキの生産基盤は安定してきているようだ。
 一方の広島では、台風被害や貝毒、赤潮発生で、ここ数年減少傾向にあり、現在ではピーク時(1987年の15,800㌧)の半分にまで落ち込んでいる。 ここでも、河口堰の建設でカキのエサとなる植物性プランクトンが減り、漁場自体の生産力が落ちていることが最大の要因であると指摘されている。

▼ ところで、僕は最近、昼休みに職場の近くの床屋へ散髪に出かけたら、「森」という漢字を構成する「木」を「水」に換えたデザインの東京都水道局のポスターを見かけた。そのコピーは、「きれいな森がうまい水をつくる」であった。だからというわけではないが、今や問題の本質については誰もが気づきつつある のだろう。
 愛知県の自治体における「21世紀課長」のように、地方自治体では縦割り・予算配分主義の行政(補助金の画一的な基準に沿った公共事業など)から脱却し、真に住民が求めるものを住民参加のもとで行っていくことが重要なのである。中央省庁の縦割り行政等の弊害については、従来から指摘され再編することが 決定されたものの、一つの省庁における問題解決の仕方や、横断的な発想による企画能力こそが問われるべきではないだろうか。
農林水産省は、個別的な課題の最適化を求めるだけではなく、気仙沼湾や志津川湾でとりくまれたような、農業・林業・漁業に従事する人たちの「全体を最適化していく発想」にこそ、真剣に学ぶべきなのである。
 農水省は、今回の新基本法の理念について
(1)食料の安定供給の確保
(2)多面的な機能の発揮
(3)農業の持続的な発展
(4)農村の振興

の4点をあげているが、次から次へと目先を変えながら、予算獲得・補助金交付による政策の遂行という手法では、複雑に関連し合っている問題点の解決にはならないし、とくに「自国民の食料」という重大なテーマについては、けっして「スローガン倒れ」にさせてはいけないと思うのだ。

▼ 最後に、前回の投稿のテーマであった小便小僧のベルギーは、ビールがうまいことでも有名であり、子どもの頃からビールを飲ませることによって、甘い物好きの幼児期にビールの酸味を覚えさせ、味覚の幅を広げ、優秀な跡継ぎを養成するそうである。
小国ベルギーは、地場ビールだらけの国でもあり、銘柄ごとに専用のグラスがあって、冷やしてからゴクゴクと喉の渇きをいやすものではなく、ゆっくりと味わうお酒と位置づけられている。それぞれが、ナンバーワンをめざしてシェアを争うのではなはく、オンリーワンという個性を尊重した文化にまで到達していると いう。
 ビール会社は、小麦とホップを栽培する農家を兼ねている場合もあり、その多くは家族的経営である。それぞれ銘柄の味は代々受け継がれ、親と子は師匠と弟子のような関係にあり、木の樽も一つ作れば100年は使う。お店で、ベルギービールをお客様に提供するウエイターのサービス向上にも力を入れており、正式なコンテストが実施され、7~8年の経験者が緊張した雰囲気の中で実地試験に臨んでいた。
というわけで、僕は今回の投稿を通して、「食生活」というものには文化的な要素、それを支える人、きれいな水、土地、さらには国家的な支援プログラム等が、バランス良くミックスされるべきだと痛感したのである。
 なお、今回の投稿にあたっては、NHKの「クローズアップ現代」や衛星放送の「ベルギーのビール祭り」を参考にするとともに、講談社現代新書の『<自己責任>とは何か』(桜井哲夫著)等を参照した。

食生活を考える(その3)-('99/12/)

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▼  農業を支える基盤である「土地」を見れば、今や遊休農地は117,000㌶にも達し、長野県の全農地面積に匹敵するとのことである。農水省は、これら全国の減反農地を活用して小麦や大豆を奨励しようというが、国に先がけて小麦の自給率向上にとりくんできた岐阜県の例では、前途多難な状況にある。
 それというのも、全国平均(41%)を下回っている(36%)食料自給率を高めるために、小麦栽培を奨励し、製品化した小麦粉を生協やJAで販売しているものの、昨年1年間の売上だけが165万円に過ぎなかったそうである。
 栽培している品種にも大きな問題があり、日本で育つ小麦は中力粉にしかならず、パンやケーキに用いられる強力粉になる小麦は、日本の気候風土では育たないとのことである。これでは、いくら栽培という入り口を援助したり、製品化しても、販売という出口でうまくいかなければ無駄になってしまうのである。

▼ また、減反農地に小麦を栽培するためには、田植えと麦の刈り取りの時期が重なるため、「水」の出し入れでは全く逆の管理が求められ、現行の水路を「用排水分離型」にする必要があり、そのための工事費用が10アール当たり80万円から120万円と積算されている。
 現在、小麦10アール当たりの生産者価格は44,000円であり、上記工事を行ったとすれば、米の価格との均衡を配慮した上限73,000円の補助金を上乗せしたとしても、投入した工事費用の回収だけで7年~10年かかることになる。これでは、「小麦を栽培してみよう」という農家の意欲も出てこないのではないか、と首をかしげたくなる。
 さらに、予定されている小麦42万㌧(計90万㌧)、大豆29万㌧(計44万㌧)という数値目標については、うまく達成されたとしても全体の食料自給率を 1%アップさせる程度にすぎないと試算されている。このような、無謀で効果がうすく、農家も喜ぶとは思われない計画が、国の審議会で議論され国策として決 定された背景には、既得権としての農業関係予算が存在しているのではないか、と僕は心底考えてしまったのである。

▼ そこで、農業生産の割合と農業人口の割合は、同じように減少しており、農業関係予算の割合も一見して減少しているように見えるが、そこは統計のマジックなのである。
 農業生産を額に換算すると、1兆5千億円(1960年)、3兆円(1970円)、5兆9千億円(1990年)、7兆2千億円(1994年)というなだらかな伸びであるのに対し、農業関係予算では、それぞれ1,394億円、8,870億円、3兆1千億円、2兆5千億円、3兆円と最近では農業生産額の半分程度を占めるほどの額になっている。なお、1990年に減少したのは、農畜産物の自由化を進めるという外的な要因があったからだと思われる。
 ちなみに、農業人口では、それぞれ1,200万人、810万人、500万人、390万人、335万人と猛スピードで離農傾向が続いているのであり、改めて「今さら小麦や大豆ではないだろう」と思うのである。

▼ 日本の農業においては、食管法という保護政策の下で、米の生産が最も安定的な作物であったし、一方の小麦や大豆などはアメリカとの貿易上の観点もあり、当初から輸入が前提にされていたのである。(注)
そのような流れの中で、たった35年間に主食の米が半減し、肉類が実に6倍、牛乳・乳製品は4倍、油脂類が3.4倍に急増してきたのである。これほど、自国民の食生活を変えてしまったのには、国の関与があったことを忘れてはならないだろうし、その行き過ぎを是正するにしても、これまでの失敗を不問にするこ とは許されないと考える。
 たとえば、このコーナーでもとりあげた畜産の例をあげるまでもなく、北海道、東北地方などでは将来の展望もなく、莫大な借金に苦しむ農民たちが多数存在し、農民の自主的な組合組織であるはずのJAについても、公的資金の投入を受けるほどの不良債権を抱え込みながら、大規模な合併策等によって生き残りに懸命であり、農業をめぐる生産基盤は想像以上に疲弊しているのである。
(注)戦後、アメリカで過剰農産物処理のための農業貿易促進援助法(1954年)が制定され、小麦の対日輸出が戦略的に行われた。「1日1回は小麦食品を食べましょう」というキャンペーンのため、「キッチン・カー」(栄養指導車)で全国の農村を巡回したり、「米を食べるとバカになる」「米食は短命」などの宣伝も行われた事実があったのである。

▼ このような現状を考えるとき、今回の新農業基本法は果たして有効なのであろうか。もしも、「農水省が獲得してきた予算は必ず自省で使わなければならな い」という思想で、今回の数値目標が構想されているのだとしたら、もはや国策とは呼びたくないし、サラリーマン納税者としては「断固としてNO!」と言いたいのである。
 おそらく、農水省もそのあたりの弱さは自覚しており、だからこそ…
(1)和食を奨励する国民の食生活改善運動
(2)生ゴミの家畜用エサへの転用

など、カ ロリー過剰摂取の現状からくる健康問題、さらには産業廃棄物をどうするのか、といった自然環境問題への国民感情に訴えるようなキャンペーンを行おうとしているのだろう。
 もうすでに、「上からの改革」と呼ばれ、補助金をたくみに使って政策誘導するという手法は通用しない時代だと認識するべきである。愛知県のある自治体で は、「21世紀課長」という役職を公募したところ、大手ゼネコンで都市開発やゴルフ場開発を手がけ、そのあり方に大いなる疑問を持った中堅社員が採用され、住民参加のもとで従来の縦割り行政の枠を超えた企画を次々と実行し、快適な町づくりに成功しているという事例も現れてきている。

食生活を考える(その2) ('99/12/)

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▼  僕が、幼い頃からの食べ慣れた食事とは決定的に違うものがある、と気づかされたのは学校給食であった。現在では、まずい食べ物の代名詞のように言われて いるが、僕にとっては初めて口にする総菜も多く、「ちょっと量が少ない」「お腹にたまらない」という感じはあったけれども、出されたメニューはおおむね美 味しかったと記憶している。
 同郷の友人たちにも、「在学していた分校から代表で本校見学に行き、『給食って、すごくまずいんだぜ』と聞かされていたが、いざ食べてみると『こんな美 味しいものはない(これは、ご馳走だ)』と思った。」「小学校3年から完全給食になったが、ミルク(脱脂粉乳)もまずくないと思われたし、卒業するまでの 間、残したおかずは〝ナスの黒ずんだ煮物〟だけだったよ。」など、学校給食は好意的に迎えられたようだ。

▼ そもそも農村に育った僕たちは、前表のように穀物や野菜中心の和食を食べ、学校の成績よりも遊びを重視しながら、学校以外では学年の異なる集団の中で 過ごし、精神的なストレスも少なく、自分たちの手で遊び道具を創り出し、おやつは知恵を絞って山や川、畑などから季節の物を自己調達していたのである。
<我が家の主な総菜>
・おにしめ(煮物)…季節の野菜、山菜、キノコ、さつま揚げ
・野菜の炒め物、天ぷら
・魚…焼き魚、煮魚、干物(主に、「ちりんこ」と呼んでいた行商人から購入)
・おこうこ(漬け物)…浅漬け、塩漬け、みそ漬け
・納豆、豆腐、鶏卵
この中で、さつま揚げ、魚、納豆、豆腐、鶏卵は、家族全員に十分行き渡らず、早い者勝ちという側面はあるものの、公正な配分をお互いが意識しつつ食べていたような気がするのである。(昭和30年代までの冬の時期、納豆は自家製であった。)

▼ これらの総菜2品程度に、ご飯と汁物が基本的なパターンであり、とくに野菜はたくさん採れる時期になると、たとえばナスやきゅうりなどを集中的に続けて食べるから、鼻についてしまうほどだった。また、汁物にはカレーライスも含まれていたが、それは特別な時のご馳走だったのであり、詳しくは当コーナーの 「カレー論」を参照されたい。
 なお、ご飯については、兄たちが中学校に弁当を持っていくのに合わせ、麦ご飯から白米だけのご飯に移行していったように記憶している。
 夏には、ナス炒り(ナスの辛子みそ炒め)、きゅうり揉み(きゅうりの千切りにさばの缶詰をかける)を、飽きるほどたくさん食べた記憶があるし、それが原因かは知らないけれど、我が家の猫はきゅうりが大好物であった。
 さばの臭いのするきゅうりを、続けて食べさせられた魚好きの猫も、さば以上にきゅうりが好物になる、という価値観の転倒が起きてしまったほどであるから、食生活の慣習は生物にとって大きな影響があるのだろう。

▼「あなたは猫と同じような食事をしていたのですか?」と問われたら、僕はイエスと答えよう。そう言えば、「ペットフード」という区分についても、現代人の傲慢さのような雰囲気が感じられるから嫌いである。
 ところで、僕は思春期の頃から生活周りのことが気になり始め、田舎者であることへの強い恥じらいや劣等感、さらには村落共同体特有の閉鎖性に対する拒否感など、生まれ育った本来の自分の姿を否定していた時期もあったし、東京への強い憧れ、新しいものや考え方への無批判な肯定が、家族や友人を傷つけたこと があったと反省している。
 18歳で上京し、朝夕食付きの学生寮に7か月ほど住んでいたが、その時の自分は洋食優位主義に成りきり、お箸を使わずにナイフとフォークで通したことがあり、かえって田舎者を演じてしまったことがある。(あーっ、あの頃を思い出すと恥ずかしい限りだ。)

▼ ここで話を本題に戻せば、生源寺東大教授の言う「日本農業の供給力を確保する」、とくに「人」の面について考えてみたいが、農業就業者割合でも明らかなとおり、1950年を100とした1995年の数値は「12」である。  とくに、1950年代、1960年代、1970年代はいずれも2桁の激減であり、言葉を換えれば「農村から大量に流出した安価な労働力こそが、日本の高度経済成長を可能にした」と言われる根拠にもなっている。
 これほど農業就業者が急激に減っていけば、日本の食料自給率(1960年のは79%であったものが、1975年には54%、1997年に41%)が低下するのは当然であり、そこには「農業では生活が成り立たない」という悲しい事実もあったはずである。
また、前述した米の供給量は、1960年から1995年の35年間で半減し、それと全く同じように日本の食料自給率も8割から4割に半減している。その中 で、農業就業者数と食料自給率を比較すれば、米の著しい生産性の向上を物語っており、それが食料自給率の減少に歯止めをかけていることがわかる。

食生活を考える(その1) ('99/12/)

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▼  先月、近くのスーパーへカミさんと買い物に出かけた時のことである。僕は、野菜売場で「一玉80円」のキャベツに目が止まり、買い物かごに入れようとしたら、「これって茨城産でしょう、駄目!」とカミさんにとがめられ、埼玉産で2分の1玉のキャベツを買うことになった。
「そうか、これが放射能汚染の影響というものか」と実感したが、最近の遺伝子組み換え作物に対する消費者側の拒否感を含め、農産物問題がにわかに注目を集めてきているように思われる。
 それは、本年7月に制定された新基本法(「食料・農業・農村基本法」という。)の審議過程にも強い影響力を与えたと言われている。とくに、大豆と小麦に関する自給率の数値目標化をめぐっては、10万通におよぶ生産者・消費者の「数値目標化を支持する」要請文や数多くの自治体決議が、鋭く対立していた議論に決着をつけ、これに意を強くした農水省は、来年4月からの数値目標化に向け、関係省庁や各自治体などと一緒に準備を進めているとのことである。

▼(主な反対意見)
・原田民間シンクタンク理事長
 数値目標化は食料の安全保障的な発想であり、日本のとるべき選択肢ではない。日本は競争力のある分野を伸ばし、現行どおり農産物は諸外国との自由貿易で賄えば十分であり、食料の危機管理的な面は、国家間での優先契約などで対応できる。米と同じように、補助金漬けの農産物は、結局のところ競争力を損なうだけである。
 (主な賛成意見)
・甲斐主婦連副会長
 気象変化や人口増加の要因によって、食料を思うように輸入できなく時代を想定すれば、必要最低限の食料を自給によって確保することは、国として必要不可欠である。

・生源寺東大教授 
 まずは、日本農業の供給力を確保する必要があり、このまま耕作放棄農地が拡大していけば、「水・土地・人」という農業を支える基盤の崩壊も予測され (いったん失われると、回復させるには莫大なコストと時間がかかる)、それを歯止めするためにも数値目標化の意味がある。
▼ もちろん供給側だけでは問題の解決にならないから、厚生省の保健政策とも連携して「日本食」を推奨する動きにある。例えば、日本食を自給率で換算した場合は「80%」、洋食の場合は「15%(食パンは小麦、卵はニワトリのエサ、豚肉は豚のエサの大半を輸入しているので、自給率の数値が極端に低くなる)」などと啓蒙するらしい。
 しかし、「待てよ」「今さら、何だよ」と、僕は思うのである。農家出身とはいえども、サラリーマン生活が24年にもなる自分としては、10アールの市場価格44,000円の国産小麦に、最大73,000円の補助金(米の価格に合わせる)を出すという方向に対して、にわかに肯定できない気持ちである。
 いくつかの作物について、1960年と1995年の数字を示せば、豆(27.7→24.1)(2004年度→25.5)と、野菜(273.1→287.8)(2004年度→254.5)が横ばいであり、砂糖(41.2→52.3)(2004年度→54.5)は微増、醤油(37.6→ 24.6)(2004年度→20.0)は10g強減少している。

▼ 僕が小学校から帰宅する昼下がり頃に、祖母は生みそを塗った麦ご飯のおにぎりを作ってくれた。祖母が留守の時は、自分で冷やご飯にみそ汁をかけて食べたものだ。今でいえば、「猫まんま」ということだろうが、僕のおやつの定番であった。
 まさに、上記の表でいえば1960年代であり、それが1995年までの35年間で米は4割強、みそは約半分になっている。肉類などのおかずは乏しかった が、たしかに僕たちはよく米を食べていたし、今でも風邪などで体調を崩し食欲がない時でも、おかゆではなく、自分にとっては「冷やご飯にみそ汁」なのであ る。

▼ ちなみに、日本航空は国内線用に初めてジェット機を輸入する際、機内の装備を日本人に合わせるための各種調査を実施したところ、トイレの改造が必要であると判明し、タンク容量を2倍にしたという実話がある。
 日本航空の蒐集したデータからの推測によれば、1日に男子が排泄する尿の平均は約1.1リットルで、1日の回数を5.5回とすれば1回の量は約0.2リットルである。一方、1日に成人が排泄する便の平均は、肉食中心文化圏の人で130グラム、菜食中心文化圏の人で250~300グラムであり、われわれ 日本人の場合、肉食中心の西欧人に比べて実に2倍以上、2人分ものウンコをしていたのである。
 したがって、日本人の大腸は西洋人より長いことも医学的に証明されており、昨今の日本における大腸ガンの急増は、米の消費量減少に伴い、長すぎる大腸の機能が弱ってきたからだ、という説もある。

自宅のトイレや生活廃水の行方('99/11/4)

▼ ある日、トイレ内に飾っていた水鳥の木工品を便器に落とし、水鳥の欠けた片足を残したまま水を流し、後からそれに気づき「必ずパイプが詰まって、いつか汚水があふれ出すことだろう」と心配したが、見事、きれいに流れ去ってくれ、とても安心した覚えがある。そこで、僕は「水洗トイレの穴の先はどのようになっているのだろう」という疑問がわき、それを調べている間にも、友人や知人に確かめたてみたが案外と知られていないようなので、「はばかりながら『トイレ文化』考」スチュアート・ヘンリ著(文春文庫)を参考に説明しておきたい。

▼ まず、トイレで屎尿を流すと、家屋のまわりの細い汚水管(直径15センチくらいの塩化ビニール製が一般的)に流れ出る。ここまでの行程が各家の私有物で、当然ながら経費も自己負担になり、土地を住宅地用に基盤整備する時に行われる工事費用に含まれている。そして、道路の下に埋まっている下水管へ達し、雨水などと合流する(東京都はこの「合流式」であり、京都は雨水を分離して河川に放流する「分流式」である)。ここからが公共下水道(幹線道路地下の広い管)であり、地区毎の下水処理場に流れ着き、スクリーンによる粗大ゴミの排除、沈砂池(土砂、泥、人糞な どの除去)、第一沈殿池(浮遊物の沈殿)、ばっ気槽(エアレーションタンク)、最終沈殿池という工程を経て、上澄みを抜き取ってから塩素消毒して川や海に放流される。

▼ 「上澄みを塩素消毒して自然に還されるのか。うん、うん、これでスッキリした。」とばかりは言えないのであり、果たして残された汚泥(水分含有量 90%)はどのように処理されるのかといえば、濃縮タンクで水分を絞り出し、水分含有量70%程度の塗れた段ボール紙のような形状で〝脱水ケーキ〟にして から、焼却炉に入れて燃やされ、その灰は東京湾に投棄されているそうである(灰の一部は特殊セメントで固めた上で埋め立て処分している)。

▼ この〝脱水ケーキ〟の1日の発生量は、10年前の統計(1989年度)で約3,000トンであり、このうち約2,300トンが消却され、灰にして約300~350トンが毎日発生しているという。東京都として、処理施設全体にかかっている費用は、平成2年度では東京23区で1日の維持管理費は約2億5,000万円、1年では890億7,000万円であり、これに支払利息、減価償却費などを含めると2,962億円という莫大な数字になっている。数字が古くて申し訳ないが、下水道処理の概略や、いかに多くの経費が必要なのかについては、ご理解いただけたと思う。

▼ そして、今後とも下水道の整備が進むに伴い、日本における汚水処理に要する経費は増加するであろう。リサイクル法の適用拡大等によって、ゴミ処理に要する経費負担も急増していくことを考えれば、人がモノを流したり、捨てたりするという毎日繰り返すことへの対応については、意外にも国や自治体の優先事項としてとりくまれてこなかった現状が明らかになっているのである。

▼ なぜ、このような事態になってきてしまったのかについては、日本における屎尿処理の歴史にも触れながら、次回以降も引き続き考えてみたいが、「使い捨て 社会の定着」「過度の清潔志向・無菌社会への傾斜」という時代的な雰囲気の影で、僕たちはいかに多くのものを犠牲にし、多額のコスト負担を強いられている のか、といったことを考えざるを得ないのである。

▼ また、「現実的なものは合理的である」とヘーゲルが述べていたように、現状に至ったなりの根拠があるはずであるし、それを改善していくには「消費のあり方」や「モノを捨てる作法」を含めて、合意形成に向けた粘り強いとりくみが求められている。そして、40歳近くまで下水道処理のプロセスを知らなかった自分を棚に上げるつもりはないが、日本人の意識の中には「何事も水に流せば済まされる」と いった自然環境への甘えや浄化作用への過度の期待があるのだとしたら、早急に訂正していく必要があることだけは強調されていいだろう。

下水道料金の設定について('99/11/4)

▼ 僕は、下水道使用料金があることすら知らなかった。栃木県内の新築マンションを買って入居したばかりの頃、「なぜ、下水道処理代金」を隣町から請求されるのかが理解できず、町役場に電話したことがある。それまでずっと、下水道処理に関する経費は住民税などでまかなわれるものとばかり思っていた。

▼ 僕の質問に対して、隣町の役場の職員は「お客様のお住まいの町と一緒に、下水道処理施設を造り共同で運営・管理しています。下水道処理にはそれなりの経費が必要で、毎月通知される請求書をよくお読み下さい」と冷静な口調で答えてくれたのである。それで、最近の水道および下水道使用料金の領収書をみて、自分なりに納得した。水道は消費するものなので、きちんと消 費税が上乗せされており、使用水量と汚水量が完全に一致し、料金は下水道使用料金が水道料金よりもやや低く設定されている。

▼ さらに、湯屋用の下水道料金は一般用との比較で、半額程度の割引になっているが、湯屋用という一部業界の料金を公示しておきながら、企業用の料金は公示されていないのはどうしてだろうか。何はともあれ、公共水道水を使用したのと同じ程度の汚水処理料金が必要になることは、「水を大切にする」「使いっ放し、汚しっ放しではいけない」、あるいは「受益者負担」を理解させていく効用が大きいと感じたのである。

▼ しかし、使用水量と汚水量が全く一致するのだろうか。料理に使用した水、洗濯物に含まれた水分、庭に散水した水などを考慮すれば、1m3も違わないというのはいかがなものかと思うのだ。水道使用料はメーターで測定されるが、汚水量は測定していないはずであるし、下水道使用料という考え方も不正確な表現であろう。汚水処理にかかる経費、人件費等が含まれているはずなので、それがわかるような記載を望みたいものである。

お正月には、イカにんじん

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* 2個のみかんは、桜島の小みかん
* 賀正の器は、東京駅・大丸地下のケーキ
* 高級ふりかけの器には、イカにんじん

○ お正月には、恩人の皆さんや友人たちからのお歳暮や年始の品で、バラエティに富んだ食卓になる。親戚からのお餅や野菜にも心温められる。そして、私にとっての「お袋の味」で欠かせないものが、イカにんじんなのである。今年もさりげなく、カミさんが作っておいてくれ、先ほど美味しくいただいたのである。

○ するめイカとにんじんに、若干のダシと醤油を入れて漬け込めば、いい味が出る。ネバネバする松前漬けではなく、あっさりとした食感がたまらなく懐かしいのだ。50代も半ばに近づいてくると、お袋の味が最高な食べ物になってくるらしい。ぜいたくな料理よりも素朴な味、脂っこい肉よりも淡白な煮魚がいいと思うのだ。
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