| 02/06 | |
トイレとウンチについて考えた(2000/12/18) |

* 田町「うなぎ居酒屋」のトイレの角に塩盛りがあった!
▼ 果たして、「失われた10年」は無意味だったのだろうか。本当に、日本人の意識改革につながったのだろうか。自分たちの「気持ち」や「意識」の背景をなしている「慣習」や「規範(タブーを含む)」については、けっして無視してはならないし、それが解消されなければ方向転換を阻害してしまうものであり、一方、それが打破されてしまえば消滅してしまうような「脆さ」や「儚さ」を持っていると思う。そこで、トイレやウンチについて考えてみたい。
(1)日本政府が、明治になってアイヌを農民化しようとしたが、アイヌは糞尿を汚れ(けがれ)として忌み嫌い、本州のように糞尿を肥料に使うような農業を拒否した(『日本庶民生活資料集成』)。
(2)第二次世界大戦の終戦とともに、占領軍であるアメリカ軍の意識として、糞尿を肥料とした野菜など、とても食べられない「不潔だ」「文化的でない」という意識が、化学肥料一辺倒の農業に転換させた大きな理由になった。
(3)近代まで多くの民族は、家畜に自分たちの糞を食べさせておいしい牛肉や豚肉を作っていたが、「不潔」ということだけで、沖縄でも韓国でもそうした英知は他からの偏見の風にさらされ、今は法律によって禁止された。
* 「世界まるみえテレビ特捜部(象使いの話)」を見ていたら、母象のウンチを子象が食べていたけれども、それは象の離乳食だという。また、韓国料理である犬の肉についても、1988年のソウルオリンピックを前に、野蛮であるという国際世論に配慮して、「狗肉」の看板を撤去・掲出禁止したことは周知の事実である。
▼ つまり、私たちをとりまく環境諸条件を決定づけている「政策」や「方向性」は変えることはできるし、それぞれの立場で声を上げ、関与していくことが自らの覚悟を形作り、将来への責任を果たしていくことになるのではないだろうか。リサイクルへの視点をはじめ、そろそろ「臭いものにはフタ」という傍観者ではいられないことを自覚したいものである。
* なお、本稿では「はばかりながら『トイレ文化』考」スチュアート・ヘンリ著(文春文庫)等の一部引用・参照した。(了)
