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「人間の役に立たないような場所」('2001/11/30)−by水元正介 |

* たばこを吸う人、灰皿にも世間の風当たりは強い!
■ 読書の秋ということで、岩波文庫の『荷風随筆集(上)』を読んでいる。高下駄をはき、こうもり傘を手に、都内を散策して感じたことなどについて、月刊『三田文学』に「日和下駄」と題した随筆を連載した。
東京の変化、人々の日常、日本人の心根などが淡々と描かれているのには驚いた。とくに私が気に入ったのは、「空き地」が少なくなっていく様子や、古くて愛おしい風景が無残にも壊され、何の疑問もなく、歴史として伝承もされず新しくなっていく描写であった。
日本人は、過去に対して慈悲の気持ちがないのだろうか、それとも新しいもの好きなだけなのだろうか。私は、それが「人間の役に立つ、役に立たない」という基準だけで、切り捨てられてきたような気がしている。
■ その典型的な事例は、東京湾に数多く存在した「干潟」であろうと思う。現在、50歳代の千葉や東京の海岸近くで生まれ育った人たちは、子どもの頃にあれだけ遊び親しんだ「干潟」が、いつの間にか埋め立てられ、残された数少ない干潟もゴミにまみれ、風前の灯火になっていることに心を痛めていることだろ う。
しかし、最大の被害者は干潟に生息していた魚介類や鳥たちだったに違いない。人間の価値判断によって、生きる場やエサ場を奪われてしまったのである。
そして、1997年4月14日、長崎県諫早湾の干潟が293枚の鉄板で仕切られ、あの残酷な映像は今でも強烈な印象として残っている。その日を忘れないために、環境NPOは4月14日を「干潟を守る日」とし、全国各地での運動をすすめる決意を示した。
■ 2001年は、有明海の養殖ノリ異変や千葉県知事選挙などによって、干潟保全へのうねりが高まるとともに、干拓事業の中断や埋め立てを見直しことになり、私はとても良い傾向だと思ったのだ。
今さら、諫早湾を干拓した農地で何を作るのか、農林水産省の「投資対効果」に対する感覚を疑わざるを得ない。くわえて、牡蠣養殖には雑木林からの豊かな水が必要であるように、農業・林業・漁業をトータルとして見つめ、将来的な方向づけをしていかなければ自然のバランスを崩すことなり、農林漁業の共倒れになりかねないだろう。まさに、行政としての責任が問われるところだ。
堂本氏が、劣性をはねかえして千葉県知事に当選したけれど、彼女をまっ先に候補者として擁立したのは、自分の想い出と共にある干潟を愛し、黙々とゴミ拾いを続けてきた個人タクシーの運転手だった。政党や組織、業界推薦などの「人間集団に役立つ」という論理に対して、顔の見える個人の感覚や自然との共生を優先させることが、今ほど大事な時はないと思うのだ。
■ 最近、干潟の価値も再認識されてきており、たとえば水質浄化能力については、三河湾北西部に広がる1000ヘクタールの一色干潟で調べたところ、人口10万人分の下水道処理施設に相当する浄化能力があることがわかり、また、3000ヘクタールの諫早湾では、その3倍の能力があると試算されている。
諫早湾のギロチン(鉄板で仕切ったこと)によって、海の浄化能力が失われ、海水の富栄養化が進み、有害な赤潮の発生やプランクトンの異常増殖につながった。それが、「有明異変」の原因になっていると生物学者らも指摘している。
まったく役に立たず、単なるヘドロにしか見えない干潟は、魚の産卵場であり幼魚の生育場でもあり、有明海はトラフグの産卵場であることも確認されている。 欧米では、干潟が役に立たない無駄な空間ではないことを知り、失った干潟や湿地の復元にとりくんでいるという。わが国でも、早急に見習うべきだ。
■ 干拓したり、農地を造成したりして、果たして何のメリットがあったのだろうか。
農業用地で何を作ればいいのだろうか?
今の時代に、リゾート開発で成功する展望があるのだろうか?
そんなことをするぐらいならば、開発しないで、そのままにしておくことが、「子や孫のためになり、かつ将来的に価値を生むこともあるのだ」ということを、私たちはもっと早く気づくべきだったのではなかろうか。
* 本稿では、2001年4月13日の朝日新聞「『記者は考える/有明異変』で知る干潟の価値」を参考にした。
