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「年収崩壊」森永卓郎著(角川ssc新書)について

● テレビでもおなじみの経済アナリスト・森永卓郎さんは、役に立つ本を誠意を込めて書いていますね。本書「年収崩壊」には、格差時代に生き残るための「お金サバイバル術」という副題がついています。現実をしっかりと見すえ、将来の変化や傾向も予測して、覚悟を持った生き方ができれば大丈夫ですよ、と元気づけられました。私がとても参考になった記述について、以下のとおり引用させていただきますので、ご参照下さい。

13ページ
企業は景気が悪くなって、経営が苦しいから正社員を減らしたのではありません。実際、 「労働力調査」で見ると、景気拡大した2002年1〜3月期から2007年1月期〜3月期の5年間の変化で見ると、正社員が93万人減り、非正社員が320万人増えました。非正社員の比率は、 28.7%から33.7%へと上昇しています。非正社員の年収をきちんと集計した統計はないので正確なところはわかりませんが、いくつかの統計から推計すると平均年収は120万円程度とみられます。
つまり、今や年収300万円を維持することさえ困難になり、平均年収120万円の非正社員が、働く人の3分の1以上を占める大きな所得格差を抱える世の中になってしまったのです。

28ページ
これからのビジネスは、基本的にファミリーではなく、シングルを対象に組立てられていくでしょう。たとえばファミリーレストランは衰退し、シングルレストランが流行していくといったことが起こるかもしれません。また、今、秋葉原で流行している「萌え」産業は、今後ますます隆盛を極めていくでしょう。「アニメキャラクターに恋をする」のは、結婚ができない男性に不可欠の行動だからです。しかし、なぜ男性は結婚しなくなってしまったのでしょうか。実は結婚しないのではありません。結婚できなくなっているのです。結婚のできなくなった理由は所得格差の拡大です。

32〜33ページ
まず結婚するメリットは、働かなくてよくなることです。自立するといっても、会社で働いていれば、いろいろとい嫌なこともありますから、 「三食昼寝付き」の生活の方が楽である事は間違いありません。しかも、サラリーマンの妻が専業主婦である時には、国民年金保険料を納める必要がありません。夫の給与から国民年金相当分が支払われているとみなされるからです。この保険料が約年間16万円、 60歳まで30年間結婚していると仮定すると約480万円のトクです。また、税金面での優遇もあります。夫の年収が700万円の場合、配偶者控除で地方税を含めて約11万円税金が減ります。 30年間で約330万円のトクです。子供が生まれると、扶養控除でさらに税金が減ります。子供が1人だと年間約8万円、 22年間で約176万円税金が減ります。さらに子供が高校生、大学生のうちは特定扶養控除が上積みされます。その分の節税が年間約2万5,000円、 7年間で約18万円になります。以上合計すると、専業主婦になって子供を作ることのメリットは、約1,004万円となるのです。
一方、結婚によって失うわれるものは何でしょうか。結婚したら、自由な恋愛の機会もなくなります、子供が生まれると家庭に縛り付けられて、外に遊びに出かけることも難しくなります。
ただ、パートナーとはずっと一緒にいられるわけですから、純粋にコストだけで考えましょう。まず、結婚した後の最大のコストは、なんといっても子育て費用です。子供1人を育てるためにかかるコストは、 aiu保険会社が、 「現代子育て経済学に2005年版」の中で推計を行っています。この調査は、子供が誕生してから大学を卒業するまでの22分間に、子供1人にかかる概算費用を試算しています。
この調査によると、基本教育費(食品・医療費・小遣いなど)が1,640万円となっています。これに学校教育費(学費、けいこごとなど)が1,345万円〜4,424万円加わりますから、基本教育費と学校教育費費を合わせた総費用は、すべて公立校に進学して最もお金のかからないケースでも2,985万円、私立の医歯系に進学する最もお金のかかかるケースでは6,064万円という結果になっています。このほかに、子供部屋を作るコストや結納金、結婚披露宴の費用の援助など様々なコストがかかります。そのコストを1,000万円と見ても、子供を1人持つことのコストは、最低でも4,000万円かかるということになります。

105ページ
転職で企業規模はどのように変化するのでしょうか。 「雇用動向調査」によると、転職によって勤務する企業規模が小さくなった人が61.2パーセント、変わらなかった人が25.3パーセント、企業規模が大きくなった人は13.9パーセントに過ぎないのです。
私が最初に入社した日本専売公社は3万2,000人規模でした。転職先の三井情報開発は1,000人規模、次の転職先の三和総合研究所は400人規模、そして現在は妻と2人の零細企業です。統計通り、順調に企業規模を小さくしてきました。そして、時間的に最も人間らしい生活を送れたのは、やはり最初に就職した専売公社の時代でした。

148ページ
老後の生活を安定させるためには、資産を株式などリスクのある商品に振り向ける必要が出てきます。問題は、具体的にどこの株を買えば良いのかということですが、長期の未来を予測することは不可能です。結局、分散投資をしてリスクを減らすしかありません。できるだけ幅広い業種の株を買っていくべきでしょう。

159ページ
確かに勝ち組の生活の方がいいかもしれません。しかし、勝ち組に残るのは、せいぜい全体の数パーセントです。ということは、勝ち組になるためには熾烈な競争を勝ち抜かなければならない、つまり仲間を蹴落とさなければならないということです。
そうして勝ち残ったとしても、幸せになれるとは限りません。お金を持てば持つほど失うのが怖くなるからです。私の知っている勝ち組の人たちは、おしなべて不安を抱えて生きています。

174ページ
教育費は"ムリ"に比例してかかります、そもそも才能ない子供に塾通いをさせたり家庭教師をつけてビッシリと詰め込み教育をするのは、子供自身のためにならないからです。
そうした場合には、可能な限り親が自ら教えましょう。小・中学校の段階なら、教科書を読み直せば親でもわかるし、何より社会で必要な勉強は親の頭にも残っているはずなので、本当に必要なことを教えればよいのです。

192ページ
デジカメで空港や市役所、市電、祭り、海、川など、あらゆるものを写真に収めているのです。もちろん半分は趣味ですが、残りの半分は定年後に向けての真面目な投資です。実は私は定年後に、雑誌社向けに写真素材をネットで販売しようと考えています。

200ページ
インターネットオークションに参加するのは簡単です。出品のためのコストはたいしたことがありません。もしかしたら、あなた勤めている会社ノベルティーや押し入れの中にしまい込んでる物にも大変高い値段がつくかもしれません。大掃除が思わぬ報酬をもたらしてくれるかもしれないのです。

204ページ
最後に、本文の中で書ききれなかったことを1つ加えておきたいと思います。それは、心の持ち方です。大変な世の中になってしまったことを事実です。ただ、いつまでも愚痴を言っていても始まりません。仮に厳しい経済状態に追い詰められても、暗くならずに常に真面目に前向きに生きることが、実は今一番必要なことだと思います。
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「体を読む」養老孟司著(ちくま新書363)

● 長年、ゴルフや詩吟をやってきた私ですが、そのなかで痛感させられることがあります。「自分の身体なのに、大事な、ここぞというショットでミスが出て」しまったり、「詩吟コンクールの舞台では、伴奏と調和できず音程を外し、アクセントをコントロール」できなかったりします。自分の声なのに思い通りにならない、ということが現実なのです。養老孟司さんの「体を読む」(ちくま新書363)を読み、自分の身体について理解か深まるとともに、少なからず安心した次第です。私が感銘を受けた記述について、以下のとおり引用させていただきますので、ご参照下さい。

22ページ
なぜ「唇」が赤いかというと、そこでは表皮つまり皮膚のいちばん表面の構造部分の性質が粘膜に近くなって、表皮下の血管の色が透けて見えるからである。だから、唇は常に赤いわけではない。血管の状態によって、青黒く見えたりもするのである。
赤いのは、唇だけではない。口の中の粘膜を見れば、全部が「赤い」 。要するに、赤き唇は、消化管の粘膜に続く上皮が、顔の表面に露出してきただけのことである。「口の中」のはずのものが「口の外」に顔を出したので、目立ってしょうがないのである。動物では、口の中のものは、口の中にちゃんとしまってあるだけの話である。

26ページ
唇は狭い範囲なのに、末梢神経の密度が高い。抹消だけではない。脳の中にある身体地図の上で唇の占める割合が体の他の部分に比較して、相当に大きい。

36ページ
唇と頬とは、爬虫類ではなかった構造が、哺乳類でできてくる典型である。それはしかし、まったく新生するのではなく、移動するにせよ、その場で増えるにせよ、間葉が豊富になるということがあって生じる。
われわれの身体とは、進化的に考えれば、建て増しの多い、古い旅館みたいなものである。新しい場所を作るにも、もとあったものとその原料をうまく利用しながら、一見「新しい」構造を作っているのである。

44ページ
なぜ顎が小さくなったかというと、現代人は子供の頃から硬いものを噛まないせいだと言われる。ゴボウを噛んだり、栗の皮を歯で剥ぎ取ったりする子供は、現代人ではほとんどいないのではないか。身体というのは、どこであれ使わないと発達しない性質がある。それなのに、親は子供を甘やかして、体を使わせない。重いものを持たせない。歩かせない。これはあまり良いことではない。
脳だけは、勉強と称して、いちおう使わせているつもりらしいが、大人を見ると、子供の時に全然使ってなかったのではないか、という疑いが生じる。子供の時に、たぶん決まったことにしか脳を使わなかったから、退化がいちじるしいらしいのである。

59ページ
比較解剖学者のポルトマンは動物の形をゲシュタルトとフォルムに分ける。ポルトマンはドイツ語圏のスイス人だから、これはドイツ語だが、日本語に翻訳すれば、姿と形といってもいいであろう。姿はずいぶん違うようだが、形が似ているよ、と言うのである。この場合の形は内部の構造で、姿というのは外部から見た形だと言っていい。
内部の形態と外部の形態に、なぜこうした違いが生じるか。それはじつは、きわめて歴然とした理由がある。外部の形は信号機能を持ち、内部の形はいわゆる「機能」しか持たないからである。

88ページ
動物は口をきかない。つまり、肺への空気の出入り口である喉頭が、いわば鼻に突っ込んでいるから、空気は素直に鼻を出入りするだけで、口には抜けにくいのである。だからウマもブタも鼻を鳴らすのであって、口で鳴くのではない。

105〜106ページ
ミシェル・フーコーによれば、そもそも病気と死とが、因果として結びつくのが19世紀である。それ以前の人間にとって、ヒトの死は病気と必然的に結びつくわけではなかった。飢え、貧困、戦争、事故、死刑、あるいは病気といっても悪魔の仕業とかしか思えない黒死病(テスト)の大流行。
そう思ってみれば、人は病気で死ぬとは限らない。さらにいえば、病気だから死ぬとも限らない。死は単なる病気の帰結というより、もっと不思議で、複雑なものだ。 19世紀以前の人がそう考えたとしても、ちっともおかしくないだろう。
他方、人体の解剖自体は、病理解剖よりはるか以前、 14世紀には、北イタリアですでに行われていた。人体解剖学は正常な人体の構成を問題とする。べつに病気を対象としたものではない。
では逆に、正常の人体を解剖しようなどと、なぜヒトは考えたのか。その理由はすなわち言語である。人は世界をことばで埋め尽くした。この作業は、ほとんど偏執的としか言いようがない。ところが、ある日突然、誰か気づく。「からだの内部がまだことばで埋めつくされていないではないか」 。ここで大宇宙に対して、小宇宙が出現する。小宇宙とは、つまり人間のことである。
言語は、本来1つのはずであった世界を、分割してしまう。では人の体を言語で表現しようとしたら、とくにその内部を言語化しようとしたら、どうなるのか。人体を分割せざるを得ない。ところが人体は全体で1つのものであって、生きている人を分割などしたら、もちろんただちな死んでしまう。だからこそ、解剖の対象は死人なのである。

123ページ
6年間、勉強したことを思い出すのは、 6年かかる。誰だって、結局は、 「かいつまんで」理解しているのである。たくさんの情報を脳に入れて、必要なものだけを濾過して残す。それが勉強である。にもかかわらず、何でも全部、覚えたがる人がいて、しばしば自分の脳を壊す。

139ページ
神経細胞は脳にかたまっているが、例外は腸で、 ここにはずいぶん多くの神経細胞がある。こうした細胞は、もちろん主に腸管の運動に関わっている。われわれが何も考えなくとも、腸はその内容物をどんどん送り、最後には必要なものを、排泄物として外に出す。こうした腸の運動は、腸の神経細胞群が統御していることになる。
この統御がたいへん融通のきくものであることは、手術的に腸をつなぐ例を考えるとわかる。腸は必ずしも端と端をつなぐとは限らない。横でつないでも、さしつかえない。そういう不自然なつなぎ方をしても、腸は何とかしてくれるのである。それは、腸の動きを、神経細胞がうまく統御するからであろう。網の目のような腸の神経組織を見ていると、なるほどこれなら、腸の動きは安心して任せられそうだ、という気がする。網の目自体が、腸の動きを感知するセンサーではないか。網の目の構造から、明らかにそういう感じがするのである。

144ページ
勉強するほうは、 1つのこと理解し覚え込むので精一杯だから、説明が単一であることを望み、あるいは1つの説明を知ると、万事をそれで説明しようとする。それを昔から、馬鹿の一つ覚え、という。自然の現象は、馬鹿の一つ覚えで済むほど、単純ではない。自然科学がしばしば単純な原理を押し通すのは、単純な部分しか見ないからである。複雑な部分については、それは自然科学の対象ではない、などという。単純な原理だけで生きて動いているなら、人間の理解などまったく苦労はないはずであろう。

152ページ
禁酒にしても禁煙にしても、いつも簡単そうに、呑まない人は言うが、こちらも人生の一部であって、そう簡単に止められない。こうした嗜好品にはたしかに習慣性もあるが、ストレスを解消する役割もある。それがあるから今の生活に耐えられる。そういう面を持っている。それを簡単に排除できると思うのは、単純思考である。排除しても、どこか別のところに、別の問題が出るであろう。

秋バテのなか、元気になる言葉

先日、先輩から元気の出る言葉を教わりました。それは老後の過ごし方に関する話で、同音異義語として意外性と納得性がありました。次のとおり、すでに広く知られた言葉かも知れませんが、私にはとても新鮮でした。

健康で長生きの秘訣は「きょういく」と 「きょうよう」です。
教育と教養のことではありません。
「今日行く(ところがあること)」と「今日用(事があること)」ことです。

もちろん、教育や教養も大切ではありますが、毎日に行動が伴い、他者との接点を持つことがポイントになるようですね。面倒なこと、わずらわしいこと、時間がかかり、余計な出費になることでも、機会があれば出かけて行く姿勢が大事なんですね。とはいうものの、私は秋バテらしく、「まだ定年前で、長距離通勤なのに、休日にも出かけてたら、疲れない方がおかしいわよ」とカミさんにも注意されました。何事にもほどがあり、中庸、バランスを取りながら、ということですね。

「 99.9パーセントは仮説」思い込みで判断しないための考え方

◎ 先日、「 99.9パーセントは仮説」思い込みで判断しないための考え方/竹内薫(光文社新書241)という新書を読みました。面白くて一気に読み終え、次のとおり、感銘を受けたか所を音声入力で記録しました。

69ページ
演繹とはトップダウン式の考え方のことであり、帰納とはボトムアップ式の考えのことなのです。政治の世界でも、首相の鶴の一声で何かが決まるのと、大勢の市民の署名運動の結果、政府が動く場合があるでしょう。科学の世界の発想法も、社会のしくみとパターンは同じということです。

70ページ
ピエール・デュエム(1861_1916年)は、 「データが仮説をくつがえすわけではない。データーが理論を変えるということはない」と言っています。

83ページ
ほとんどの日本人は、それは単なる仮説であることに気がつかなかった。だから、ある日突然、土地神話が崩れて、それとともに日本経済全体がひっくり返りそうになったのです。
1つの仮説に過ぎなかったのに、それを疑わずに経済システムを組み立てていたから、膨大な不良債権を処理して、裸一貫で出直す羽目になったのです。 「はじめに仮説ありき」 と知ることは、だから、単なる机上の空論ではなく、実人生にも十分に役立つことなのです。

92ページ
データから新しい理論を導き出す帰納法は、「はじめに仮説ありき」という大きな壁が立ちはだかっているために、うまく働かない。
どんな実験データも、観測データも、実験者や観測者の頭の中にある仮説の中でしか解釈されないわけです。そういう意味で、 「裸の事実」なんてものは存在しないわけです。
だから、データが仮説を倒すことができないんですよね。 「仮説を倒すことができるのは仮説だけ」なんです。

106〜107ページ
モリス自身「ロボトミー手術(前頭葉切除)は常に安全である」といていましたが、この手術で死んでしまった人もいるんです。実は、 4パーセントぐらいの人は、死んでしまっています。
ところが、病気の治療効果の方が上であって、副作用はとるに足らないと考えられていたわけです。副作用と治療効果を比べたときに、圧倒的に治療効果の方が上だという考え方が一般的だったのです。死人まででているのに。
当時の社会的な背景にも触れておきましょう。なんで死人まででるような手術が盛んに行われたのか、その一因がわかると思います。
1930年代、 40年代というのは、まさに戦争の時代だったのです。第二次世界大戦ですね。そして、急激に精神病患者が増えてしまって、病院に収容しきれないという状況だったのです。
でも、なんとかしなくちゃいけない。そこで、この治療法にみんなが飛びついたわけです。みんなというより、もう政府自体がロボトミー手術に飛びついたわけです。それでどんどんどんどん手術を行って、退院させてしまえ、というようなことが始まったりですよ。
結局、 1949年のノーベル賞受賞までの間に、アメリカだけでも、手術の数は1万件にも達しています。これはすごい数字だと思います。それくらいにロボトミー手術は一般的な治療法になっていたわけです。日本でも戦後、広瀬貞雄医師1人で500件以上の手術が行われたことが分かっていますが、全体の件数はよく分かっていません。

226ページ
話が通じないのは、自分の仮説が相手に通じていないということです。また、相手の仮説を自分が理解していないということでもあるのです。
だとしたら、喧嘩なる前に、今一度、 「この人は、どんな仮説の世界に生きているのだろう? 」という具合に相手の心を読んでみればいいのです。

233ページ
科学的な態度というのは、 「権威」を鵜呑みにすることではなく、さまざまな意見を相対的に比べて判断する“頭の柔らかさ“なのです。

235ページ
蠢く仮説の不安定さを嫌う人々は、自分の周りを「白い仮説」ばかりで塗り固めようとします。そして、ルーチンの毎日に埋没していき、グレーゾーンにはいっさい目を向けようとしなくなります。

心変わりして、さんまの塩焼き定食

◎ 先日(2013.10.1)、せっかくのお弁当を家に忘れていまいました。カバンの重さでわかるはずなのに、感覚が鈍ってきたようです。玄関先まで見送りにきたカミかんも、「ケータイ、忘れてない?」と聞いたのに、お弁当には油断したようです。

◎ そこで、お昼は何にしたかといえば、慶応大学「山食」のカレー(普通盛りor大盛りorカツカレー)と決めました。食堂に入ったら「まだ売切れていないから、ハンバーグにしよう」と心変わりし、発券機に500円玉を投入し、発作的にボタンを押したのは「さんまの塩焼き定食」でした。
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